土 佐(高知県) 修行の道場16ヶ寺
参考:るるぶ 四国八十八ヶ所 / 四国八十八ヶ所詳細地図帳
第24番 室戸山 最御崎寺 明星院 宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=虚空蔵菩薩大師が「空海」と改名されたところ。
大師は十八歳で、自分の進む道は仏教だと悟られた。
しかし、当時の奈良仏教には満足できず、大峰・高野に入り、阿波の大竜寺まで修行し、ここ室戸の先端に立って、つまり大自然の真ん中に入ることによってほんとの悟りを得た。
これまでの無空・如空・教海から、空海という名前に、この地で改めたのだ。境内には大師の奇跡とされている明星石、くわず芋がある。
宿坊あり (1泊2食 6000円 要予約 駐車場 50台)
↓ 約 6km
第25番 宝珠山 津照寺 真言院
宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=延命地蔵菩薩ここ室戸は湊づくりに苦心した所である。
現在の室戸港は、一木権兵衛が人夫百七十三万人、工費十万千三百円を使って開いた。
彼は湊の人口を塞いでいたお釜石を破砕するため、自分の命を捧げると祈願し、完成後自刃した。
今湊を見下ろす山の中腹に一木神社が祀られ、お釜石の一部がこの寺の境内にある。↓ 約 5km
第26番 龍頭山 金剛頂寺 光明院
宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=薬師如来門前に「弘法大師天狗問答」と刻んだ石が立っている。
それは、大師がこの寺に住持していた時、天狗が多く住んで人々に害を与えた。大師は自像を楠に刻んで「我ここにあらん限りは、汝はこの砌に望むべからず」と命じて天狗共を蹉蛇岬まで退却させたという話を記念したものである。
宿坊あり (1泊2食 6000円 要予約 駐車場 30台 \200円)
↓ 約 33km
第27番 竹林山 神峯寺 地蔵院
宗派=真言宗豊山派
開基=行基菩薩
本尊=十一面観世音菩薩土佐の関所ともいわれ、徐々に「真っ縦」といわれる急勾配になっていく坂道が歩き遍路を鍛える。
仁王門から境内の本堂までさらに150段もの石段が待っている。境内は樹木に囲まれ静けさが漂う。
↓ 約 38km
第28番 法界山 大日寺 高照院
宗派=真言宗智山派
開基=行基菩薩
本尊=大日如来 (重文)この寺で本尊より信仰を集めているのは爪彫り薬師のほう。
この薬師如来は、弘法大師が生えている楠に爪で刻んだと言い伝えられている。
明治時代に台風で倒れるまで、納経所の細い脇道を少し行った場所に立木のまま祭られていたが、現在は仏像の部分が奥の院に安置されている。↓ 約 11km
第29番 摩尼山 国分寺 宝蔵院
宗派=真言宗智山派
開基=行基菩薩
本尊=千手観世音菩薩阿波や讃岐の大寺のほとんどは、長曾我部元親の戦火に焼かれたという。
ために、現代でも土佐出身の遍路は、阿波や讃岐の札所ではその出身をつい隠すということである。その悪名高い元親も、土佐ではこの国分寺を再建したりしている。
その柿葺きの金堂は悪名とは似ても似つかぬ優雅さを持っている。『土佐日記』を著した紀貫之は、この地に四年間滞在し、近くに屋敷跡もある。
↓ 約 11km
第30番 百々山 善楽寺 東明院
宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=阿弥陀如来かつて30番札所だった安楽寺(金性院)は、善楽寺から5.7km市街地に入った場所にある。
土佐神社の奥にある善楽寺は、大同年間(806〜10)に土佐一の宮の別当寺として建立された。
明治の廃仏毀釈で一の宮は土佐神社となり善楽寺は廃寺に。
後に国分寺に預けられていた本尊の阿弥陀如来を迎えて安楽寺が建立される。
ところが昭和四年に、国分寺から大師像を迎えて善楽寺も再興されたため、30番札所が2つになってしまった。
そこで善楽寺は「開祖霊場」、安楽寺は「本尊安置の寺」として2カ所で納経が行われていたが、平成六年に、第30番札所は善楽寺、安楽寺はその奥の院と定められた。土佐では明治の神仏分離政策にともなう廃仏毀釈がすさまじく、615カ寺あった寺が167カ寺にまで減ってしまった。
安楽寺もまた歴史に翻弄され、数奇な運命を辿った寺である。↓ 約 10km
第31番 五台山 竹林寺 金色院
宗派=真言宗智山派
開基=行基菩薩
本尊=文殊大菩薩江戸時代に入ってからは土佐藩主の帰依をうけて、寺は大いに栄え名僧が集まってきた。
そのため「南海第一道場」とよばれて土佐文化の中心ともなった。
現在も学問に強い神様として知られる。「坊さんかんざし」の話の結末
この寺の脇坊妙高寺の僧純信と、五台山下いかけやの娘お馬とのロマンスは「よさこい節」で有名だが、結末は次のようになっている。
安政二年(1855)二人は駆け落ちして、讃岐で捕まり、純信は追放されて伊予川之江で寺子屋の師匠となり、お馬は須崎の庄屋お預けの身から、大工寺崎米之助の妻となった。
↓ 約 8km
第32番 八葉山 禅師峰寺 求聞持院
宗派=真言宗豊山派
開基=行基菩薩
本尊=十一面観世音菩薩この寺の仁王門に立つ仏法護持の金剛力士二体はは仏師定朝の作で国宝に指定されているし、寺宝には徳治三年と銘のある鐘、さらに永禄十三年銘の鰐口などがある。
また、本堂前の奇岩奇石の岩間には俳人芭蕉の
木枯らしに 岩吹きとがる 杉間かなの句碑がある。
江戸時代の藩主山内一豊が参勤交代に出航の時には航海安全の祈願を欠かさなかったという。
「船魂観音」「船霊観音」とよばれ、漁師からの信仰も集まった。↓ 約 10km
第33番 高福山 雪蹊寺
宗派=臨済宗妙心寺派
開基=弘法大師
本尊=薬師如来創建当時は高福寺と称していたが、仏師・運慶とその子湛慶が訪れ本尊をはじめ、仏像を造ったところから運慶寺と改名したといわれる。
荒廃の一途をたどったが、廃寺の危機から復活させたが月峰和尚である。
月峰と面識のあった長曾我部元親が寺を保護することになり、元親の宗派であった臨済宗に改宗。
慶長四年(1599)元親の死後は、その菩提寺となったのを機に、元親の号にちなんで雪蹊寺と改めた。寺宝としては、運慶作の本尊、薬師如来、日光月光の両菩薩があり、ほかに湛慶作の毘沙門天、脇士の吉祥天女があり、さらに海覚作の十二神将十体とも、いずれも国宝である。
↓ 約 7km
第34番 本尾山 種間寺 朱雀院
宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=薬師如来 (国宝)吹き抜けの建物の中に、たくさんの柄杓、それも底の抜けた柄杓ばかりがぶら下っている。
妊婦が柄杓を持参して安産祈願を頼むと、寺で底を抜き、二夜三日祈祷して渡す。
妊婦はそれを床の間に祀っておき、安産するとお礼にその柄杓を納めに行くのである。
お手洗いの金属製の柄杓まで底が抜けたりしている。柄杓の底を抜くのは、通りがよくなって安産に通じるからとか。
↓ 約 12km
第35番 医王山 清滝(瀧)寺 鏡池院
宗派=真言宗豊山派
開基=行基菩薩
本尊=薬師如来入らずの山
貞観三年(861)平城天皇の第三皇子高岳宮真如法親王は、大師の跡を慕って四国に渡り、この寺に来られた。
(このために、この真如法親王を遍路のはじめとする人がある)
高岳宮真如法親王は薬子の乱に連座したとして皇子の任を解かれ、出家して真如となる。
貞観三年土佐の国へ下国し、当寺で修法され後、さらに求法行脚を唐に求められたと伝えられる人物である。親王は更に天竺へ出かけるべく、この裏山に逆修の塔(生存中に建てる墓)を建てられたが、その山を「入らずの山」として尊崇されている。
↓ 約 15km
第36番 独鈷山 青龍寺 伊舎那院
宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=波切不動明王弘法大師は唐の青龍寺で恵果阿闍梨から真言密教の秘法を授かり、報恩のため帰国して青龍寺を建立しようと発願、唐から仏具の独鈷杵を投げた。
帰国した大師が四国巡錫中、この地で老松の木にとどまっている独鈷杵を見つけ、嵯峨天皇に奉上し、不動明王を刻み堂宇を建てたのが縁起。歩くことを本来とする遍路も、川や海を渡る時は「お許しの舟」といって乗り物を利用した。
この青龍寺へも「龍の串の渡し」があって、スカイラインの開通までは、皆舟で渡った。
大師がこの寺に渡られる時、八人の船頭が案内をしたというので、この渡しの権利はその子孫が受け継いできているという。↓ 約 58km
第37番 藤井山 岩本寺 五智院
宗派=真言宗智山派
開基=行基菩薩
本尊=阿弥陀如来・観世音菩薩・不動明王・薬師如来・地蔵菩薩四国で唯一、五体の本尊を安置する寺。
大師堂には伝説にまつわる「矢負の地蔵」が祭られている。札所間の最長距離は、この37番から38番で、約百キロ。
最短距離は68番から69番で、ほとんど0ということである。この寺には子安櫻、戸たてずの庄屋、筆草、尻なし貝、三度粟、口なし蛭、桜貝など現実と法益を交ぜた七不思議の伝説がある。
↓ 約 95km
第38番 蹉陀山 金剛福寺 補陀落院
宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=三面千手観音菩薩「補陀落」とは、梵語ポータラカの訳語で、インドの南海岸にある観音様の住む所といわれる山のことである。
そこは、観音浄土として尊崇され、日本でも「補陀落渡海」と言って、この地を目指して何千人の僧達のいた事が、井上靖の小説『補陀落渡海記』に書かれている。岬全体が広大な境内(三万六千坪)には次のような大師七不思議の遺跡がある。
「ゆるぎ石」「亀石」「刀の石」「亀呼び場」「竜燈の松」「竜の駒」「名号の岩」などである。↓ 約 60km
第39番 赤亀山 延光寺 寺山院
宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=三面千手観音菩薩「目洗い井戸」は、眼のの病気にご利益があるとされる。
山号は赤亀が梵鐘を背負って寺に現れたという伝説に由来する。遍路は全国からやって来て、全国にまた帰って行く。
それは即ち文化の伝達者になる。
讃岐の砂糖、土佐の石灰、伊予の甘蔗などその代表的なものといえるだろう。↓ 約 30km
廃仏毀釈 明治の新政府は、明治元年四月二十八日、「神仏判然の御沙汰」という太政官布告を出した。
それを、地方では廃仏毀釈と受けとり、とくに土佐ではより厳しく受けとり、多くの寺院の廃滅を招いた。
即ち、維新前には六百十五カ寺もあった寺が、布告のため残ったのは百七十六カ寺となった。
注) 資料によって、百七十六カ寺と百六十七カ寺があります。
正確なことをご存知の方は教えてください。=Link=