讃 岐(香川県)

涅槃の道場23ヶ寺
 

参考:るるぶ 四国八十八ヶ所 / 四国八十八ヶ所詳細地図帳
66  巨鼈山 雲辺寺 千手院

宗派=真言宗御室派
開基=弘法大師
本尊=千手観世音菩薩 (国宝・伝・弘法大師作)

標高921メートル、札所の中では一番の高所にあり、ために四国高野と呼ば阿波、伊予、讃岐に各坊を持つ学問道場であった。
創立七十七代に及ぶ寺域には巨杉巨木が覆い茂る霊場であり、寺宝に大師筆の不動明王像、愛染明王像、巨鼈山の扁額がある。

雲辺寺ロープウェイを利用すれば山麓駅から雲辺寺まで全長2594メートル、高低差657メートルを七分で到着。
往復2000円。

↓ 約 9.5km

67  小松尾山 大興寺 不動光院

宗派=真言宗大覚寺派
開基=弘法大師
本尊=薬師如来

嵯峨天皇の勅願寺。

この寺はその昔、真言宗と天台宗の二宗派によって管理されていたといわれ、真言二十四坊、天台十二坊を持っていた。
その名残としていまも本堂の左右に真言、天台の大師堂があるという珍しい寺である。

寺宝としては、いまから六百年ほど前、藤原経朝が奉納した「大興寺」の扁額があり、また石段下の大樟の木は、弘法大師お手植えだと伝えられている。

雲辺寺が海抜約千メートルと、高地にあるため、この寺へ下る道は難所となる。
最近の調査で、その間に五十基ほどの遍路墓のあることが分かった。
北は武蔵国、南は豊後国と全国にまたがり、時代は享保年間(18世紀の初)のものからある。

吉三郎との恋仲を反対された八百屋尾お七。
結ばれないことを悲しみ、江戸で放火を起こして処刑されてしまう。
残された吉三郎が四国遍路をしている最中に仁王像の首が傷んでいることを発見。
お七の供養のために新しい首にしたと言う。
真偽のほどは定かではないが、口を開いている阿形の頭部のみ江戸時代に新しくなっている。

↓ 約 9.5km

68  琴弾山/七宝山 神恵寺

宗派=真言宗大覚寺派
開基=日証上人
本尊=阿弥陀如来 (伝・弘法大師)

69番観音寺と同じ境内にある神恵院。
明治の神仏分離令によって観音寺の境内に移され、1寺2霊場の札所となった。

↓ 隣接

69  琴弾山/七宝山 観音寺

宗派=真言宗大覚寺派
開基=日証上人
本尊=聖観世音菩薩

琴弾神社の別当寺だった由緒ある寺。

桓武、平城、亀山天皇など歴代天皇の勅願所として栄えた。

↓ 約 4.5km

70  七宝山 本山寺 持宝院

宗派=真言宗高野派
開基=弘法大師
本尊=馬頭観世音菩薩 (国宝・伝・弘法大師作)

本尊彫刻(弘法大師が一刀三礼で刻んだ馬頭観世音菩薩)と同時に阿弥陀、薬師の両如来とも国宝である。

本山は珍しいことに、戦国の兵火や火災などはまぬがれている。
ために久安三年建立の仁王門、大同四年建立の五重塔などは往古の姿そのままで残されている。

本堂は正安二年(1300)の建築で七間四面の堂宇は県内寺院では唯一の国宝建造物の指定を受けている。

円柱の珍しい仁王門は鎌倉時代の建造で、国の重要文化財。

太刀受けの仏
天正年間、長曾我部元親が讃岐に進め入って来た時、ここに陣を構えようとした。
断った時の住職に斬りつけたが、倒れたその僧には傷もつかず、御堂の中に入ると、阿弥陀如来の肘から血が流れていたので、さすがの荒武者達も驚き恐れて退いたという、かくて、この寺は、戦火にかからなかった数少ない寺の一つとなった。

↓ 約 12km

71  剣五山 弥谷寺 千手

宗派=真言宗善通寺派
開基=行基菩薩
本尊=千手観世音菩薩 (伝・弘法大師作)

弥谷寺は岩盤の中に堂宇があり、四国霊場唯一の摩崖仏(岸壁に刻まれた阿弥陀三尊)、大師堂背後の奥の院聞持窟、洞の地蔵尊、大師リン(王+侖)加護摩修行窟、大師加持水などがあり、さらには阿弥陀三尊の岩盤に大師がほりつけられた弥陀宝号、梵字などがあり、さらに大師が唐の国から請来したという金銅五鈷鈴がある。

八万四千体の石仏
昔からこの辺りでは、死者の霊を背負うような格好をして水場まで上がり、霊を降ろして降りてくるという習慣がある。
そのときには、決して後ろを振り返ってはいけないとされている。
「その数かぞへつくすべからず」(本居宣長)とある山内の石仏群は、その風習の象徴だろうか。
そしてそれは「往古の人、至而貴人にあらずんば別に墳墓をばきずく事なし、唯此のごとく自然の石へおもふままに影付しものと見へたり」(「讃岐廻遊記」)と言ふことだろう。

鎌倉時代に一遍上人が刻んだとされるものも含まれている。

大師堂内の奥の院は「獅子の岩窟」と呼ばれている。
大師が幼少のころ、学問をし、後に密教の修行を行った場所。
獅子が口を開けたような岩の穴で大師自身が掘り上げたという説もある。
そこで祈ると獅子が罪を食べつくしてくれると言い伝えられている。
内部には阿弥陀像、弥勒像、大師像が安置されている。

仁王門と堂宇は数百段の石段の参道で結ばれている。
門をくぐると無数の石仏が並べられている川に架けられた橋を渡る。
ここが地獄の涅槃図に出てくる賽の河原だと言われている。
死者はこの賽の河原を渡って、三途の川へ行くのだという。

↓ 約 4km

72  我拝師山 曼荼羅寺 延命院

宗派=真言宗善通寺派
開基=弘法大師
本尊=大日如来 (伝・弘法大師作)

弘法大師の一族である佐伯家の氏寺として推古四年(596)の建立であり、当時は世坂寺と号していた。
西行もここを訪れたことを「山家集」に書いている。
寺の近辺には「四国のかたへまかりける同行の・・・」云々という同行の者を懐かしんで詠んだ西行法師の仮住居・水茎庵がある。

境内には県指定の不老松(通称・笠松)があったが、平成十三年に枯れてしまった。

↓ 約 500m

73  我拝師山 出釈迦寺 求聞持院

宗派=真言宗御室派
開基=弘法大師
本尊=釈迦如来 (伝・弘法大師作)

弘法大師七歳のとき、仏道に入る証を得ようとして481メートルの倭斯濃山の頂に立ち「仏道に入り、衆生を救わんとするわが願い、成就するものならば霊験を、さもなくば賭したこの身を諸仏に捧げる」と念じて截りたつ断崖から身を躍らせた。
と、落下する大師の下方に紫雲がたなびき、蓮華の花に座した釈迦如来が出現「一生成仏」の宣を授け、大師の願いは叶えられたという。
また、釈迦如来と羽衣をまとった天女が現れ、大師は天女に抱きとめられたと。
そこで大師は、出現した釈迦如来の像を刻んで本尊とし、出釈迦寺と命名の寺をその麓に創建すると共に、得た霊験から山号を我拝師山と改称せられた。
大師が命をかけた霊蹟は捨身ケ嶽禅定といい、寺より18キロほど登った山の断崖に奥の院としてあり、麓の寺と共に衆生済度発願の根本道場として残っている。

お釈迦様が山にこもって苦行した後、山から出て痩せ衰えた姿を「出山の釈迦」といい、寺名はそこから来たと伝わる。

↓ 約 3km

74  医王山 甲山寺 多宝院

宗派=真言宗善通寺派
開基=弘法大師
本尊=薬師如来 (座像二尺五寸)(伝・弘法大師作)

寺号は山の形が毘沙門天の甲に似てることから甲山と号したという。

大師は多度郡の郡司であった父佐伯直田公(善通)と、母阿刀氏(玉依姫)の三男として宝亀五年(774)六月十五日、この地に誕生した。
幼名を真魚と言い、小さい時から土で仏を作って祀るという遊びをよくした。
その遊び場はこの寺の東の辺りで、仙遊が原と言い、地蔵堂やその飼犬を埋めたという犬塚がある。

弘法大師が刻んで安置した毘沙門天像は、別名岩窟の毘沙門天といわれ、小さな穴から像を拝むことができる。
毘沙門天が鎧甲を身に着けていること、山の形が毘沙門天の鎧と甲の形に似ていることから、甲山寺となづけられたという。

子宝に恵まれない女性が地蔵の前掛けを持って帰ったところ、願がかなって子供を授かった。
そのお礼として新しい前掛けを供えに来たという。
以来、子供が授かるお地蔵様として信仰されるようになった。

↓ 約 1.5km

75  五岳山 善通寺 誕生院

宗派=真言宗善通寺派総本山
開基=弘法大師
本尊=薬師如来 (座像 一尺六寸)

弘法大師ご誕生の霊蹟である。
高野山の金剛峯寺、京都の東寺と並ぶ弘法大師三大霊場の一つだ。

唐から帰朝した大師は大同二年(807)先祖の氏寺を建立せんとして、父善通郷から寺領として荘園四町余を拝受し、そこにかって学んだ唐の青竜寺に模した堂宇を建てた。
寺号は父の名をとって善通寺と命名、山号は背後の五つの山(香色山・筆山・我拝師山・中山・火上山)にちなんで五岳山と号し、院号は大師誕生せしところより誕生院と名づけられたという。
境内にはご両親及び稚児大師木像、産湯の井戸、御影池、瞬目大師、二十日橋、後嵯峨、亀山、後宇多の三帝御廟、大樟、法然上人逆修塔、足利尊氏利生塔仙遊ケ原、西行庵と久之松、旅大師、雲気、大麻など五大明神があり、国宝に行基菩薩作地蔵尊、大師作吉祥天、大師母公筆の法華経序品一巻や三国伝来の金銅錫杖がある。

九十九メートルの戒壇めぐり
仁王門をくぐれば、西院本坊の御影堂に進む。
その地下に、能満所願の本尊をお祀りした戒壇めぐりがある。
中程の、大師がお生まれになった下の所に祭壇が設けられている。
 

  宿坊あり (1泊2食 5500円 要予約)

↓ 約 4.5km

76  鶏足山 金倉寺 宝幢院

宗派=天台寺門宗
開基=和気道善
本尊=薬師如来 (座像二尺八寸)(伝・智証大師作)

もともと当山は弘法大師のおいでのち延暦寺五代座主となり三井園城寺を賜った智証大師の誕生地である。

寺宝に金胎両部曼荼羅大般若経、十六善神像、絹本着色智証大師御自像があり、境内には乃木将軍妻返しの松がある。

ここは日本で始めて鬼子母神(詞梨帝母尊)が現れたという寺。
智証大師が5歳のときに天女が現れ、仏道に入るならずっと護ってくれると言って去った。
この天女こそが、鬼子母神だといわれている。

讃岐の五大師
貞観八年(866)最澄に伝教大師という大師号が贈られてから、明治になるまでに、十七人の大師が生まれている。
そのうち、この寺から出た智証、「大師は弘法」の弘法、空海と同じ佐伯氏出身の道興、空海の俗弟子法光、修験の理源と、五人が讃岐出身であり、世にこれを「讃岐の五大師」と呼ぶ。

↓ 約 4.5km

77  桑多山 道隆寺 明王院

宗派=真言宗醍醐派
開基=和気道隆
本尊=薬師如来 (立像二尺五寸)(伝・弘法大師作)

当寺領はもと和気道隆の荘園であった。
この僧園内の桑畑で天平勝宝元年(749)のある夜、怪光が起きた。
道隆公は怪光を退治したが、そのとき誤って乳母を射殺。
道隆公は乳母の供養を願い、桑の木で薬師如来像を刻み、それを安置するための堂宇を建立したのがはじまりである。

開創者、和気道隆公の廟は本坊に祀ってあり、また観音堂には理源大師作の観世音菩薩が、さらに持仏堂には智証大師作の大日如来が安置されている。
ちなみに、境内には百観音像がある。

国の重要文化財に指定されている星曼荼羅図をはじめ、智証大師が刻んだ明王の五大尊や弘法大師直筆の五大尊画像など多くの仏画が収蔵されている。

丸亀の京極藩の京極左馬造は幼少より盲目だったが、道隆寺の本尊である薬師如来に祈願したところ全快したという。
以後医学を学んで御典医になり、眼病の達人と呼ばれるようになった。
死後、本尊の潜徳院殿堂に祭られ、多くの人が眼病平癒を祈願するために訪れている。
堂内にはぎっしりと目の文字が書かれた祈願札が貼られている。

多宝塔の建立
四国札所には現在五重塔が四塔ある。
70番・本山寺、75番・善通寺、86番・志度寺で、三塔が香川県。
あと一塔は高知県の31番・竹林寺である。
この寺にも、かつて五重塔が建っていたが、天正三年(1574)長宗我部元親によって焼かれた。
今、その跡に、昭和五十五年春完成した二層の多宝塔がある。

↓ 約 7km

78  仏光山 郷照寺 広徳院

宗派=時宗
開基=行基菩薩
本尊=阿弥陀如来 (座像一尺八寸)

この時宗なる宗派は四国霊場中唯一のものである。

現在は厄除けの寺として知られている。

札所では珍しい、奈良様式の本堂。

昔、郷照寺に臨阿という心の優しいお坊さんがいた。
都へ行くことが決まり、出発する数日前、犬に追われている子ダヌキを見かけ助けた。
傷の手当をし、傷が治るまで世話をして森に返してやった。
臨阿が都に行ってしまった後の郷照寺は、戦乱や飢餓のせいもあり、しばしば無住になることも。
そのすきに住み着こうとする悪人を追っ払ったのが、タヌキのお化けだ。
以来、タヌキを神様として祭るようになった。
今でも、犬を飼うと災難が起こるという言い伝えがある。

札所と宗派
弘法大師との結びつきが強く、またそれが特色となっているので、四国霊場の札所は全て真言宗と思っている人も多いと思うが、そうではない。
江戸時代には神社までが札所であったし、現在でも天台宗が四カ寺(43・76・82・87)、禅宗が三カ寺(11・15・33)、時宗が一カ寺(この寺)となっている。

庭園が素晴らしく、名石や名木があることでも知られている。

↓ 約 6km

79  金華山 天皇寺 高照院

宗派=真言宗御室派
開基=弘法菩薩
本尊=十一面観世音菩薩 (立像二尺三寸)(弘法大師作)

保元の乱で敗れ、讃岐の地に流され鼓ケ岡で崩御された崇徳上皇。
境内に湧く冷たい霊水に御遺骸を浸したという言い伝えがあり、二条天皇が上皇の冥福を祈って崇徳上皇社を建立。
明治の神仏分離で崇徳上皇社は白峰宮となった。
その死を京の都へ奉聞するあいだ天皇の棺を安置したのがこの寺であり、そのことから寺号を天皇寺と改号した。
ちなみに、崩御した崇徳上皇を祀っているのは八十一番・白峰寺である。

やそばの清水
景行天皇の御代、讃留霊王は瀬戸内海を荒していた悪魚を退治した。
その時八十八人の兵士と共にその毒気に当たって気を失ったが、童子の捧げたこの地の泉の水によって皆蘇生した。
以来この泉を八十八の水、弥蘇場の水と呼ぶ。
一時はこの水を売って歩く商売さえあったし、現在はこの泉に冷やされた心太(ところてん)が有名である。

↓ 約 7km

80  白牛山 國分寺 千手院

宗派=真言宗御室派
開基=行基菩薩
本尊=十一面観世音菩薩 (立像一丈六尺)(行基菩薩作)

天平十三年(741)聖武天皇は各国に国分寺を建立せよと宣を賜れた。
この寺はその勅命により、行基菩薩が建てた讃岐の国分寺である。
入母屋造の本堂は、前面と背面に桟敷唐戸が付いた鎌倉後期のもの。

本尊は明治三十四年に国宝に指定。
鎌倉中期建立の本堂は同三十六年に国宝指定。
また、高松藩主・生駒一正公と因縁浅からぬ鐘は、昭和十六年に国宝指定。
さらに特別史跡に指定されている境内には、往時、建立されていた七重塔の塔跡に礎石が十四個、金堂跡に三十三個の礎石が遺されていて、往古の姿を偲ばせている。

寺域からは創建時代の唐草文平瓦、蓮華文丸瓦、重狐文平瓦などの瓦が出土し、資料館に展示されている。

鐘の返却証文
この寺の鐘は、もと香川郡塩江町安原の鮎滝に住む大蛇がかぶっていたものと言う。
昔、淵に住んでいた人を食う大蛇を戸次八郎という者が退治に出かけたが、大蛇が鐘をかぶって顔を出すので仕留められない。
そこで千手観音に念じると退治でき、鐘を寺に納めた。
その音色が素晴らしいので、藩主生駒一正が時報に使おうと、田二ヘクタールと交換に城へ持ち帰った。
ところがさっぱり鳴らず、遂には「もとの国分寺へいぬー」と鳴った。
殿様が鐘を返した時の証文が今に遺っている。

香川県にはさぬき七福神があって、國分寺の七福神は紅一点の弁財天。
美・徳・福に利益があるといわれる。

最後の「遍路ころがし」

80番國分寺〜81番白峯寺 約7km

讃岐平野を見下ろす景色の美しい尾根道。
国府台の丘陵を行くゆるやかな登り道を歩いて行くと、國分寺を見下ろす最初の休息所に着く。
ここからが88カ所最後の「遍路ころがし」である。
五色台への急坂の始まりだ。

一本松の県道180号を越して、麓から尾根に出るまで、木の生い茂る登山道をだいたい高度差にして二百数十メートル登ることになる。
一時間で三百メートルの高度さを登るハイキングの標準ペースで考えると、一時間弱かかる。

↓ 約 13.5km

81  綾松山 白峰(峯)寺 洞林院

宗派=真言宗御室派
開基=弘法大師
本尊=千手観世音菩薩 (立像 三尺三寸)(智証大師作)

保元の乱で讃岐に配流、崩御された崇徳上皇の御陵、その菩提をとむらう頓証寺殿がある。

宝物館には国宝の後小松天皇の宸筆下賜された「頓証寺」の扁額、上皇宸筆六字名号掛軸、光明皇后御筆法華経、大師御筆地蔵尊、智証御自筆の画像などが保管されている。

高麗形式の七棟門の手前にある2基の十三重塔は、源頼朝が上皇の菩提を弔うために寄進したもの。

ほととぎすの落し文
勅願門前の欅の木を、玉章の木といい、その巻いた落葉を「ほととぎすの落し文」という。
昔、この国に流された崇徳上皇が都恋しさに
  啼ばきく聞けば都ぞ慕はるる此里過ぎよ山杜鵑
と詠われたので、杜鵑がこの木の葉をくちばしに巻いて、つまり鳴き声を出さず、しかし訪れた印にこれを落したということからの名である。
 

  宿坊あり (団体のみ)

↓ 約 7.5km

82  青峰山 根香寺 千手院

宗派=単立
開基=弘法大師
本尊=千手観世音菩薩 (座像三尺八寸)(智証大師作)

弘仁年間、巡錫中の弘法大師は当地で金剛会曼荼羅の五智如来を感得した。
大師はそのことにちなんでこの山を青峰、赤峰、黒峰、黄峰、白峰と命名され、その中の青峰に花蔵院を創建し五大明王を祀られた。

境内には樹齢1000年以上の白猴欅がある。
後に後白河法皇の勅願所となり99の末寺をも巨刹としてとして栄えたが、兵火により焼失。

秘仏の本尊は三十三年目に一度の開扉。

牛鬼と山田蔵人
「牛鬼伝説」で有名。
およそ400年前の天正のころ、青峰山に住んでいた牛鬼という化け物が人々を苦しめていた。
香川郡安原の弓矢の名人である山田蔵人高清が退治しようと山中で待ち構えていたが、なかなか発見することができない。
見つかるよう根香寺の本尊に祈願した満願の日、牛鬼が出現。
口の中に矢を打ち込むと悲鳴を上げて逃げ去っていった。
後を追うと2kmほど西の定が淵で死んでいるのを発見。
高清は牛鬼の角を切り取り、冥福を祈った。
今でもその角と牛鬼の絵が残されている。
牛鬼の絵姿を身につけていると、魔除の効果があるという。

紅葉が美しい。

↓ 約 18km

83  神毫山 一宮寺 大宝院

宗派=真言宗御室派
開基=義渕僧正
本尊=聖観世音菩薩 (立像三尺五寸)(伝・弘法大師作)

境内には考霊天皇、百襲姫、吉備津彦命などの宝塔がある。

地獄の釜首と一宮御陵
本堂前に薬師如来を祀る小さな石の祠がある。
この中へ首を突っ込むと地獄の釜の音が聞こえると言われ、罪の深い人は、その石の扉が閉まって首が抜けなくなると言うから怖い。
これを聞いた意地悪なおタネばあさんは、自分でやってみることに。
頭を入れると扉が閉まりゴーッという地獄の釜の音が聞こえてきた。
あわてて抜こうとしたが抜けない。
ばあさんは今までの悪事を謝ると、するっと抜けた。
以来、見違えるほど優しくなったという。

その横に一宮御陵と呼ばれる三基の石塔があり、百襲姫等を祀る。
隣の田村神社が百襲姫を祀っており、神仏合祀の名残であろう。

↓ 約 17km

84  南面山 屋島寺 千光院

宗派=真言宗御室派
開基=鑑真和上
本尊=十一面千手観世音菩薩 (伝・弘法大師作)

天平勝宝六年、唐の國より正式に和国に迎えられた律宗の開祖、鑑真和上が来朝の際、訪れたのが屋島山上。
和上は参上の北嶺こそ伽藍建立の霊地なりとて念踊、開基した。

寺運は平安時代から天暦、藤原、鎌倉時代と隆盛を見たが、以後は盛衰の歴史を繰り返している。
鎌倉時代には一時衰退。
南北朝時代に大和の西大寺の末寺となった。

寺宝に平清盛寄進の鉄灯籠、土佐光信筆源平合戦図、悪七兵衛景清の守り本尊である千手観世音菩薩像などがある。

書院庭園の雪の庭など見どころが多い。

狸の蓑山大明神
この山の狸太三郎は、佐渡の三郎狸、淡路の芝衛狸と共に日本三名狸と言われる。
屋島寺住職の代がわりの時は、屋島合戦の模様を鳴り物入りで実演してみせたりしたと言うが、日清、日露の戦争に多くの乾分を連れて出征して大いに働いた後、死んだという。
今、本殿横に祀られ、水商売の神となっている。

↓ 約 7km

85  五剣山 八栗寺 観自在院

宗派=真言宗大覚寺派
開基=弘法大師
本尊=正観世音菩薩 (伝・弘法大師作)

五剣山は宝永三年(1706)の大地震で東の峰が崩落。
5つあった峰が4つになったという。
参道の正面に立つ歓喜堂は、木喰以空上人が後水尾天皇の妃から賜った大師作の歓喜天を祭ったもの。

入唐前、再び五剣山を訪れた弘法大師は、無事に仏教を学び修める念願が叶うかを試すために8個の焼き栗を埋めた。
帰朝してみると、すべての栗から芽が出ていたという。
これが寺名の由来。

縁結び、夫婦和合に霊験がある「八栗の聖天さん」として庶民の信仰が厚い。

下駄を穿く天狗
本堂と、歓喜天を祀った聖天堂との間の、両側に赤い千人札が林立している石段を登って行くと、中将坊という堂がある。
この山の守護神、天狗様が祀られている。
ここに新しい下駄を奉納して、翌日行ってみると天狗様が加護のために働いて下さった証拠に、必ずその下駄の歯が汚れていると言う。

↓ 約 7km

86  補陀落山 志度寺 

宗派=真言宗善通寺派
開基=藤原不比等
本尊=十一面観世音菩薩 (立像五尺二寸)(国宝)

推古天皇33年(625)の創建と伝える古寺。
寺の延喜を絵解きする『志度寺縁起』という壮大な掛物が伝わっている。
本堂の左手奥にはその縁起「海女の玉取り」伝説にまつわる20基ほどの五輪塔と経塚がひっそりと立つ。
境内の一角には、讃岐の守護であった細川氏から寄進された曲水式庭園があり、山水画のような幽玄な世界が広がる。
この庭に続く無染庭は伝説の情景を7個の石と岩、白砂によって表現した枯山水庭園で、縁起の悲話を伝えている。

藤原不比等が奈良の興福寺を建立する際、妹が志として唐に伝わる3つの宝珠を送ってきた。しかし志度の浦で難破し宝珠を竜神に奪われてしまった。
これを奪い返すために志度にやってきた不比等は、土地の海女を妻とし、息子房前をもうけた。
息子を藤原家の世継ぎにするという約束を取り付けた海女は、自分の命を捨てて竜神から宝珠を取り返す。
妻を哀れんだ不比等は海女に墓と堂を築き「死渡道場」と名付けた。
のちに志度を訪れた房前は、母のために志度寺を建立し、千基の供養塔を立てたという。

仏罰で大蛇になった当願という狩人
この寺で有難い説教を聞きながら、狩に出かけた弟暮当のことばかりを考えていた兄の当願は、仏罰が当たって大蛇に変身させられた。
悲しみながらも、自らの目玉を瓶に入れて酒を醸るように弟に言い残し、満濃池に入り、後には瀬戸内海の底に入った。
今でも樽に酒を入れて海に流すと大雨を降らせてくれるという。

↓ 約 7km

87  補陀落山 長尾寺 観音 

宗派=天台宗
開基=行基菩薩
本尊=聖観世音菩薩 (立像三尺二寸)(伝・行基菩薩作)

聖徳太子の開創と伝えられている。

この寺の仁王門に立つ仁王像は、大阪で造られ船で志度浦へ到着。
志度から長尾まで陸路を運ぶ者がなかった。
そこで当時、長尾寺の住職だった名僧桂同法印が、仁王さんに向かって心の中で念じた。
仁王像は法印の命ずるまま長尾寺まで歩いたという伝説を持っている。

一年に何人か不思議なことにどこの門からも寺に入れない人がいるという。
激しい吐き気がしたり、眩暈が起きて、どうしても足を踏み入れることができない。
逆に長尾寺を出るときも、なかなか出られないことがあるとか。
そのときは、それまで回ってきた札所の真言を唱えれば、出ることができるといわれている。

静御前得度の寺
源義経の没後、その愛妾であった静御前は、母磯禅尼の出身地(大内郡小磯)ということで讃岐にやって来て、この長尾寺で得度し、「宥心」という尼になった。
その遺跡として剃髪塚、化粧の井、義経を忘れようとその形見の鼓「初音」を沈めた鼓が淵、住んでいた庵跡の静薬師などがある。

↓ 約 17km

88  医王山 大窪寺 遍照光院 

宗派=真言宗大覚寺派
開基=行基菩薩
本尊=薬師如来 (座像三尺)(伝・弘法大師作)

元正天皇勅願寺。
天皇の御代、当地へ来錫した行基菩薩は霊感を得、持念された。
その後、唐より帰朝された弘法大師は奥の院で求聞持の秘法を修せられた。
その場所は窟胎蔵ケ峰、或いは胎蔵峯寺という。

大師はさらに大きな窪の側に堂宇を建立、自ら座像等身大の薬師如来像を刻んで本尊として安置。
そして、四国霊場ご開創のあいだ所持された唐の恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて、当寺を四国霊場八十八番札所と定め、結願寺と定められた。
大師が錫杖を納められたのが、本堂前の宝杖堂と伝えられている。

女性の入山が早くから認められたため、女人高野として栄えた。

普通薬師如来は薬壺を左手に持っているのだが、大窪寺の薬師如来はほら貝を持っているという珍しいもの。
ほら貝でさまざまな厄難病苦を吹き払ってくれると言い伝えられている。

結願所の話
長尾寺の東に、真言宗西教寺という寺があり、そこに俗称穴薬師と呼ばれる奥の院がある。
かつて大師はここを結願所にしたいと思い、一夜のうちに本尊を刻もうと発願された。
ところが例の天邪鬼が、鶏の鳴き声をつくって朝を告げたので、大師は自らの力不足を恥じて諦めたという。
今も掘りかけの摩崖仏が残っている。

一番札所へ ↓ 約 40km

お名残や これが札所の打ち納め 
         またのご縁を結びたまえ



 
 
おへんろ交流サロン

HP 前山おへんろ交流サロン
п@0879−52−0208
入館無料
九時〜十六時
火曜日休館

江戸時代の古地図、およそ200年前の納経帳や納札など、道路沿いで見つかった貴重な品々がへんろ資料展示室に展示されている。
お接待も受けられるので、気軽に立ち寄ってみたい。