聖地 高野山(和歌山県)

総本山 金剛峯寺
 

参考:るるぶ 四国八十八ヶ所 / 四国八十八ヶ所詳細地図帳
■ 霊峰

高野山は海抜約1000メートルの山上にひろがる東西六キロ・南北三キロの盆地。
この盆地は内八葉外八葉の峰々に囲まれ、ちょうど蓮台のような地形をしている。

■ 高野山を発見

弘法大師が都を離れ、高野山を発見されたことについては、古くから一つの物語が伝えられている。

それは大師が、二ヵ年の入唐留学を終え、唐の明州の浜より、帰国の途につかれようとした時、伽藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷は空中を飛行して現在の伽藍の立つ壇上に落ちていたという。
大師はこの三鈷の行方を求め、いまの大和の宇智郡に入られたとき、そこで異様な姿をした一人の猟師に逢った。
身の丈2メートル余り、赤黒い色をした偉丈夫で、手に一張の弓と矢を持ち、黒と白の二匹の犬を連れていた。
大師はその犬に導かれて、紀の川を渡り、やがて嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出会い「わたしはこの山の主です。あなたに協力いたしましょう」と語られ、さらに山中深く進んでいくと、そこに忽然と幽邃な台地があった。
そして、そこの1本の松の木に、明州の浜から投げた三鈷がかかているのを見つけて、この地こそ、真言密教に相応しい地であると判断し、この山を開くことを決意された。
山中で出会った女性は、山麓の天野の里に祀られている丹生都比売明神であり、猟師は大師の手によって狩場明神として祀られた。

これは高野山の開創伝承であるが、大師が明州の浜を船出して帰朝の途につく時、自分が学んできた仏教(真言密教)は、これまでの南都仏教が、成仏の理想は遠い彼岸にあるとするのとは異なり、この現実の身に成仏の理想を達成し、此岸、即ちこの現実の社会に平和な楽土を実現出来る教えであるとの確信をもっておられた。
その理想達成のためには、どうしても修行にふさわしい場が必要であった。
そのことは、弘仁7年(816)6月19日付の「高野山を賜らんことを乞う」上奏文に附けた布勢海宛の手紙に「空海大唐より還るとき漂蕩に遭いて(さすらい歩いたとき)、いささか一少願を発す、帰朝の日必ず諸天威光を増益し、国界を擁護し(鎮護国家)衆生を利済せん(済世利民)がために、一禅院を建立し法によりて修行せん。願わくは善神護念し、早く本願に達せしよと。」と記されており、またその上奏文には「空海少年の日好んで山水を渉覧(歩き廻る)せしに、吉野より南に行くこと一日、さらに西に向かって去ること両日程(2日間)にして平原の幽地あり、名づけて高野という。計るに紀伊の国、伊都の郡の南に当れり、四面高嶺にして人蹤蹊絶えたり(訪れる人がいない)。今思わく、上には国家のおんために、下にはもろもろの修行者のために荒藪を芟り夷げて(荒地を開いて)、いささか修禅の一院を建立せん。」とある。

■開創

高野山は、平安時代の偉聖弘法大師によって開かれた日本仏教の一大聖地である。

弘法大師は、桓武天皇の勅許を得て延暦23年(804)唐(現、中華人民共和国)に渡り、長安の都(現、西安)で、国師青龍寺恵果阿闍梨から真言密教を授かって2年後の大同元年(806)に帰朝。

博多に東長密寺を建立され、次いで嵯峨天皇の勅命で和泉槇尾山寺に移り、さらに勅命によって、京都の高雄山神護寺に移られ、同じく勅命によって立教開宗を宣言され、鎮護国家、済世利民の教えをかかげられた。
ここに日本ではじめて真言宗が誕生したのである。

■ 弘法大師 (空海 くうかい) -774〜835-

773年の生年説もある。 
謚号は弘法大師、灌頂号は遍照金剛。 
真言宗の開祖。 
讃岐国多度の生まれで、幼名は佐伯真魚。 
十五歳で上京し儒学、道教、仏教を学び、一沙門から求聞持法を伝授されて仏道精進を決意する。 
最澄とともに入唐、恵果から灌頂を授けられ、インド伝来の密教を持ち帰る。 
高野山に金剛峯寺を創建、東寺を密教の根本道場とする。 
能筆家。 
文化史上に大きな足跡を残した。 
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空海は伝教大師最澄と並ぶ平安仏教の創始者であり、三筆の一人に数えられる名筆家だった。 
この二人はさまざまな意味で終生のライバルであり、水と油のほどに性格も異なっていた。 
最澄が秀才だとすれば、空海は天才だった。 
二人の間には睦まじい親交の時期もあり、そしてまた必然といえる決別もおとずれた。 
この両者はお互いに相手を意識しつつ、それぞれ自分の信じる確固たる道を歩んで、日本仏教の重鎮となった。 

空海と最澄の間にはかなりの数の往復書簡があったと思われる。 
その中で今日に伝わるものに、空海の最澄あて書簡がある。 
世に知られる国宝『風信帖』である。 
これは空海の書の中でもっとも確実な真筆というので、内容より書簡としての価値が喧伝されてきた。 

『風信帖』の書き出しが「風信雲書」で始まるのでつけられたもので、都合三通からなっている。 
書かれた年代がいまだにはっきりしないが、811年(弘仁二)前後とされる。 
もと比叡山延暦寺にあったが、現在は東寺(教王護国寺)の所蔵になっている。 
これは後に双方で書簡の交換をしたが、最澄の空海あて書簡は信長の比叡山焼き討ちで焼失したという説もある。 

ところで『風信帖』の文面だが、すべて最澄にあてた返書である。 
お招きに従って比叡山へお尋ねしたいが、多忙をきわめているのでどうか当方へお越しくださり、ともに仏法の根本に関わる事柄を相談し合って新しい教えをひろめましょう、そんな内容である。 

有名なわりに、『風信帖』の文面はあまり紹介される機会がない。 
なかなかの名文なので、ここにその一部を掲げてみる。 
「風信雲書、天より翔臨す。之を披き之を閲するに、雲霧を掲げたらむが如し、兼ねて止観の妙門を恵まれる。頂戴供養しておく攸を知らず。巳だ冷なり。伏して惟れば法体如何に。空海、推常なり。命に随つて彼の嶺に躋攀せむとも擬るも、限るに少願を以てし、東西することを能はず。今、我が金蘭及び室山と与に一処に集会して仏法の大事因縁を商量し、共に法撞を建てて仏の恩徳に報ぜむことを思ふ。望むらくは煩労を憚らず、此の院に降赴せられむことを。此れ望むところ望むところ。そうそう不具。釈空海状して上る 」 注)漢字のない部分はひらかなで書いています。 
九月十一日 
東嶺金蘭 法前 護空 

ほかの二通のうちの一通は、最澄の『仁王経』借覧に対して、他人に貸したのがまだ戻っていないので、そのうち自身で持参いたしますという文面である。 
日付は九月五日になっている。 
余談だがこの最澄あて書簡はもと五通あったのが、一通は何者かに盗み去られ、もう一通は関白豊富秀次が東寺から持ち去ったという。 

最澄より遅れて入唐求法から帰った空海は、その請来した典籍類が最澄をはるかにしのいでいた。 
ために最澄は空海からそれらの貴重な仏典をしばしば借覧したばかりでなく、弟子として密教法儀の灌頂まで受けている。 
書簡は交友をあかす貴重な証拠でもある。 
しかし親密な関係もやがて破綻を招くことになる。 
その一つが弟子泰範をめぐる確執である。 

泰範はもと南都元興寺の僧だったが、縁あって最澄の弟子になっていた。 
最澄は812年(弘仁三)高雄山寺(神護寺)で空海から金剛界灌頂を受け、翌年には泰範らの弟子にも受けさせた。 
ところが、泰範はそのまま空海のもとにとどまって、最澄の度々の帰山命令にも従わなかった。 
さらに空海が代筆して、「玉石の区別がつかぬほど愚か者でない」という絶縁状まで最澄に送りつけていた。 
人間的魅力の違いか。 

もう一つが、最澄の度重なる仏典借覧の申し出だった。 
空海にしてみれば、苦労して唐で集めたかけがえのない財物である。 
虫がよすぎると思って当たり前だろう。 
弘仁四年の『理趣釈経』借覧依頼を毅然と断って、希代の名僧は袂を分ってしまった。 
これには顕教と密教の理念の相違が根底にはあった。 

空海はいう。 
「秘密仏乗は唯わが誓ふ所なり。非法の伝授せる、これを盗法と名づく」と。 

■ 大門 -重文-

高野山の総門であり、結界のシンボル。
開創当時は現在地より少し下った九折谷(つづらおりだに)に一基の鳥居があった。
現在の建物は宝永2年(1705)に再建されたもので、両脇の金剛力士は江戸時代の仏師康意(阿形像)、法橋運長(吽形像)による大作である。
この大門は、弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業の一環として、解体修理を行い5年3ヶ月を経て、昭和61年(1986)竣工した。
正面の聯には「日々ノ影向ヲ闕サズシテ、処々ノ遺跡ヲ檢地ス」とある。
つまり弘法大師は毎日御廟から姿を現わし、方々を廻って人々を助けるという同行二人の信仰を示している。

■ 壇 場

金胎不二の浄土として信仰されている。
ここに、高野山開創にあたり、まず諸堂が建立された。
奥の院とともに壇場は高野山の二大聖地である。
ここには根本大塔、金堂、西塔、東塔、地主明神社、山王院(拝殿)、御影堂、准胝堂、孔雀堂、三昧堂、愛染堂、大塔の鐘、大会堂、不動堂(国宝)、六角経蔵など密教思想に基づく堂・塔が建立されている。

 ■ 大塔

 この大塔を真言密教の根本道場として建立されたので根本大塔という。
 多宝塔としては日本で最初のものである。
 胎蔵界の大日如来と金剛界の四仏が祀られる。
 この中は、大日如来の浄土であり、この中に参ると、仏と結縁出来ると信じられている。

 ■ 大塔内陣

 十六本の柱には堂本印象画伯の筆になる十六大菩薩が描かれている。
 四隅には密教を伝えた八祖像(昭和11年印象画伯揮毫)が掲げられている。

 ■ 金堂

 高野山御開創当時は講堂と呼ばれた。
 平安時代半から一山の総本堂として重要な役割をはたしていきている。
 本尊は高村光雲作の薬師如来(阿シュク如来 - 秘仏)が奉安されている。
 内部の壁画は木村武山画伯の筆になる。

 ■ 御影堂

 伝説の「三鈷の松」を前にして建つ。
 もと大師の持仏堂であったが、のちに大師御影を祀り、今の名になった。
 真如親王が描かれた大師御影を奉安し、堂内の外陣には十大弟子の肖像が大師の御影を守護するかのように掲げられている。
 現在の建物は天保14年(1843)炎上後、弘化4年(1847)再建されたものである。

 ■ 准胝堂

 光孝(小松)天皇の御願により真然僧正が建立。
 現在の建物は明治16年(1883)に再建されたもの。
 本尊准胝観音はもとは食堂にあり、得度剃髪の時の守り本尊であった。

 ■ 孔雀堂

 後鳥羽法皇の御願により請雨(雨乞い)祈願のため翌正治2年(1200)に奉納された。
 昭和元年(1926)金堂とともに類焼し仮堂となっていたが、弘法大師御遠忌記念事業の一環として同58年(1983)に再建された。

 ■ 御 社 -重文-

 丹生都比売は山の神で女体、狩場明神はこれを祀っていた狩人を神格したもので、後にさらに神格化され衣冠束帯の高野明神となった。
 建物は大永2年(1522)再建。

 ■ 山王院

 文禄3年(1594)再建の御社拝殿である。
 地主の神を「山の神」と信じることからこの名が生まれた。
 毎月16日、山内の僧侶による「法楽論議」、また、山上の僧侶の修行学道の試験とも言うべき「竪精明神論議」「御最勝講」等が開かれ、また、浪切不動明王をここに奉安し て夏季の祈りも奉修される。

 ■ 西塔

 真然大徳が光孝天皇の勅により、仁和2年(886)に大師のしたためられた「御図記」にもとづいて建立された多宝塔。
 本尊は金剛界大日と胎蔵界四仏の五仏が奉安されている。
 現在の建物は、天保5年(1834)に再建された。
 大塔と一対をなすものである。

 ■ 六角経蔵

 鳥羽上皇妃、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために浄写された紺紙金泥一切経(荒川経または美福門院経ともいう)千巻を納めるために建立された経蔵である。
 現在の建物は昭和9年(1934)2月に再建された。
 同門院は、この経に荒川庄を付けて寄進されたので荒川経蔵とも呼ぶ。

 ■ 大塔の鐘

 弘法大師が鋳造を発願され、高弟真然大徳時代に完成した。
 火災などで鐘楼が焼失し、3度ほど改鋳された。
 現在の銅鋳は天文16年(1547)に完成したもの。
 高野四郎とも呼ばれ、毎日、午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日の間は午後6時)、午後9時、午後11時の5回、時刻を山内に知らせている。
 鐘の数は5回あわせて108となる。
 もとは法会などの集会を知らせるためのものであった。

 ■ 不動堂 -国宝-

 建久8年(1197)に、鳥羽上皇の皇女八条女院の発願により、行勝上人が建立した「一心院」の遺構である。
 現在の建物は十四世紀前半に再建されたものである。
 当初は阿弥陀堂であったと推定されるが、後に不動明王を本尊とし、脇士の八大童子は運慶の作。
 住宅風の仏堂として有名である。

 ■ 愛染堂

 建武元年(1334)後醍醐天皇の綸旨により四海静平・玉体安穏を祈り、不断愛染明王護摩並びに長日談義を行うために建立された。
 本尊は後醍醐天皇御等身の愛染明王で大変あらたかだといわれる。
 現在の建物は嘉永元年(1848)のもの。

 ■ 大会堂

 鳥羽法皇の皇女五辻斎院頌子内親王が父帝追福のため建立された堂。
 もと東別所にあったが、西行が同内親王にすすめ、長日不断談義の学堂として壇場に移し蓮華乗院と称した。
 後に法会の集会の場となった。
 現在の建物は嘉永元年(1848)再建。
 本尊は丈六の阿弥陀如来、脇仏は観音・勢至菩薩。

 ■ 三昧堂

 本尊は金剛界大日如来、済高座主(870〜942)が延長7年(929)に建立。
 もと壇の下にあったが、ここに移したのは西行法師だといわれ、それを記念して、堂前には西行法師手植えの桜(西行桜)がある。
 理趣三昧を修したのでこの名がある。
 現在の建物は文化13年(1816)の再建。

 ■ 東塔

 大治2年(1127)白河院の御願によって醍醐三宝院勝覚権僧正の創建。
 当初は、上皇等身の尊勝仏頂及び不動明王・降三世明王の三躰を奉安。
 天保14年(1843)焼失、現在の建物は昭和59年(1984)140年ぶりに再建された。
 安置仏も創建当時の尊像である。

 ■ 六時の鐘

 福島正則候が父母の追善菩提を祈って元和4年(1618)に建立した。
 寛永7年(1640)焼失したため、同12年(1645)正則の子・正利によって再鋳された。
 鐘銘の仮名まじり文が有名である。
 現在でも、午前6時より午後10時までの偶数時に、時刻を山内に知らせている。

 ■ 蛇腹路

 弘法大師が竹箒で蛇を払ったという伝承からこの名がある。
 そのため高野山では近頃まで”高野ぼうき”(この名のかん木がある)が使われ、竹箒は禁止されていた。

 ■ 勧学院

 北条時宗が山内衆徒の学道修練の道場として、金剛三昧院境内に建立したものを、文保2年(1318)後宇多法皇の院宣により現在地に移された、
 今でも一山衆徒の学道修行の勧学会が毎年行われている。

 ■ 蓮池

 明和年間、旱魃たびたびおこったため、瑞相院先住慈光師が善女龍王像と仏舎利を寄進し、明和8年(1771)春に蓮池の中島に小祠を建立して祀った。
 平成8年(1996)十月祠を修復した。

 ■ 真然廟 -県重文-

 寛永17年(1640)建立。
 総本山金剛峯寺境内の小高い丘に位置する。
 建立以来、幾度かの修理を重ねたが、平成2年九月の真然大徳1100年御遠忌を迎えるにあたり、その記念事業の一環として、昭和63年(1988)八月に解体修理工事に着 手、翌平成元年十月に完成した。
 当初真然堂と呼ばれていたが、発掘調査の時、お骨の納められた御舎利器が発見されたので、新たに真然廟として手厚く祀られた。

 ■ 阿字観道場

 金剛峯寺第401世座主中井龍瑞大僧正の発願と寄進により昭和42年(1967)に建立された。
 阿字観とは真言密教における瞑想法で、大日如来と一体となる修行法である。

 ■ 中院御房と瑜祗塔

 弘法大師の御住房と伝える中院御房(龍光院)には、大師が唐から御請来された灌頂道具や什宝物が数多く保存されている。
 その裏山獅子ケ岳には五基の相輪をそばだてた瑜祗塔が建立されている。
 正式には「金剛峯楼閣瑜祗塔」で、金剛峯寺という名は、この塔から生まれたという。

■ 総本山 金剛峯寺

弘法大師が金剛峯楼閣一切瑜祗経にもとづいて名づけられた高野山の総称である。
現在は奥の院弘法大師御廟を信仰の中心として結成された高野山真言宗3600ケ寺、信徒1千万の総本山である。
この総本山の住職(座主)が館長となるしきたりとなっている。
主殿の北東に隣接して昭和53年に高野山真言宗宗務所が新たに建設された。

もと文禄2年(1593)豊臣秀吉が母堂の菩提のため寄進したものである。
江戸時代には学侶方の本山となり、明治時代から座主の住房となり宗務所も置かれた。
本山内には、主殿(県重要文化財)をはじめ官長居室、奥殿、別殿、新別殿、奥書院、新書院、経蔵、鐘楼、真然廟、護摩堂、阿宇観道場、茶室等がある。

 ■ 大広間

 重要な儀式や法会が行われる。
 襖の群鶴図は、落款、印章はないものの、その作風から江戸時代初期に活躍した雲谷等顔の弟子で、斉藤等室の筆によるものと確実視されている。

 ■ 柳の間

 襖の柳鷺図は、その落款から山本探斎の筆になる。
 豊臣秀吉に追放され、この山に来た秀次は、この山の木食応其上人の助命の願いにもかかわらず自刃を命ぜられた。
 その自刃の間として有名。

 ■ 奥書院

 防寒用に座敷内に囲炉裏(土室)が設けられている。
 襖の絵は落款から雪舟の4代目雲谷等益とその息子の等爾の作。

 ■ 上壇の間

 昔、天皇・上皇が登山された際、応接間として当てられた所で、現在は、当山の重要儀式が行われる。
 壁は総金箔押しであり、天井は折上式格天井の書院造の様式で、上々壇の格天井はすべて花の彫刻が施されている。
 欄間は透かし彫りとなっている。

 ■ 播龍庭

 石庭としては我国最大の庭(2.430平方メートル)である。
 雲海の中で雌雄一対の龍が、奥殿を守っているように表現されている。
 龍は四国産の青い花崗岩140個。
 雲海には京都の白い砂が使われている。

 ■ 別殿内部

 襖絵は、守屋多々志画伯の作で、四季の花や鳥、弘法大師入唐の模様が描かれている。

 ■ 新別殿

 昭和59年(1984)の弘法大師御入定1150年御遠忌大法会執行に、大勢の参詣者の接待のため、記念事業の一環として同年1月に新設された。

 ■ 新書院・奥殿

 本山の貴賓室である。
 襖の絵は石崎光瑶画伯の大作で、ヒマラヤの風物が描かれている。

 ■ 大師教会本部

 この大講堂は大正14年(1925)高野山開創1100年記念として建てられたもので、本尊は弘法大師、脇仏は愛染明王、不動明王が奉祀されている。
 毎年各種法会、儀式をはじめ、全国詠歌大会、宗教舞踊大会はここで開催される。

 ■ 教化研修道場

 弘法大師信仰教化と研修の中心となるもので、弘法大師御入定1150年遠忌大法会記念事業の一大眼目として昭和57年(1982)12月に竣工した。
 400名程度を収容出来るようになっており、僧侶・寺族・檀信徒などの研修・講習並びに仏教文化の場として活用されている。

 ■ 教化研修道場中講堂内部

 168畳敷きの大広間で、正面壇上には頼尾弘邦画伯謹書による中央・胎蔵界大日如来、右・弘法大師、左・不動明王の画像が奉祀されている。

■ 高野山霊宝館 本館

金剛峯寺をはじめ一山に伝えられている貴重な文化遺産を保護収容し、一般に公開するため大正10年(1921)に開設された。
建物は宇治平等院を模した木骨単層銅瓦葺木摺漆喰になるもので、山内における数少ない大正建築としても貴重になりつつある。
境内には石楠花が植えられており、4月下旬から5月中旬頃までがみごろ。
秋には楓などの紅葉が美しい。

 ■ 新収蔵庫

 国宝・重文などの指定品増加にともない、昭和59年(1985)新収蔵庫として建設された。
 空調設備や防災対策が調っており、文化財の保護を基本としているが、拝観も出来るようになっている。

■ 高野山の文化財

高野山は弘仁7年(816)に開創されて以来、長い歴史の中で栄枯盛衰を繰り返し、法灯を護持してきた真言密教の一大道場である。
多いときには山内寺院二千坊余りを数えたというが、現在は117ケ寺がその伝統を受け継いでいる。
これらの寺院の諸仏や什宝などが、現在文化財として伝えられている。
高野山の歴史の中で、山内寺院の大半を焼失したと伝える火災だけでも4度に及び、文化財にとっても大打撃であったことは想像に難くない。
明治時代には廃仏毀釈や、それに追い討ちをかける大火により、文化財が焼失、散逸したことは歴史に新しい。
これらの難を逃れた文化財だけが、今日まで伝えられているのであるが、それでも国宝23件、重要文化財174件、県指定文化財32件、史跡・名勝・天然記念物11件を数え、さらに、今後もなお指定品となる可能性の文化財が五万点を越えるといわれている。
まさしく高野山は文化財の宝庫、宗教芸術の殿堂と呼ぶに相応しい。
霊宝館には、これら指定品の約98%が収蔵されている。
本館は紫雲殿、放光閣の二つの棟をつなぐように南・西・隅を巡る回廊からなり、新収蔵庫は仏像彫刻、絵画、書跡・工芸の三室に分けられている。
夏季には年一回の大宝蔵展(特別展)を開催し、年間数回の企画展を催している。

■ 霊宝館の収蔵品

霊宝館には国宝21件(4.686点)、重文142件(13.884点)、県指定13件(2.850点)が収蔵され、未指定品になると、その数50.000点の収蔵量を誇る。
代表的な収蔵品を挙げると、弘法大師が唐から御請来になったと伝えられる国宝・諸尊仏龕(一龕)、重文・金銅仏具(八口)、重文・釈迦如来及び諸尊像(一龕)や弘法大師の真筆である国宝・聾瞽指帰(二巻)、重文・即身成仏品(一巻)、浄土教美術の傑作である国宝・阿弥陀聖衆来迎図(三幅)、平清盛が自分の頭の血を絵具に混ぜて描かせたと伝える重文・両界曼荼羅図(二幅)、その他国宝の絵画では、仏涅槃図(一幅)、五大力菩薩像(三幅)、勤操大徳像(一幅)、伝船中湧現観音像(一幅)、彫刻では八大童子立像(八体)等が有名である。
国宝の書跡では、大字法華経(七巻)、金光明最勝王経(十巻)、文舘詩林(十三巻)などが挙げられる。
但しこれらの収蔵品は、文化財保存の観点から常時展示されているわけではなく、大宝蔵展、企画展の内容に即して展示されている。

 ■ 国宝 仏涅槃図部分 一幅 金剛峯寺 平安時代

 釈尊が沙羅双樹の下にて入滅する情景を描くもので、涅槃会の本尊として用いられてきた。
 本図は応徳3年(1806)の墨書銘があり、多くの涅槃図の中で現存最古の作である。
 またその優雅で気品あふれる表現は、日本仏画の最高傑作と呼ぶに相応しい名画である。

 その他、多数。

■ 高野山の指定建造物・史跡・名勝・天然記念物

建造物では伽藍不動堂、金剛三昧院多宝塔が国宝で、大門、山王院本殿、徳川家霊台、普賢院四脚門、金剛三昧院客殿、同経蔵、同四所明神本殿、奥之院経蔵、上杉謙信霊屋、松平秀康及び同母霊屋などが重文に指定されている。
その他、和歌山県指定としては、金剛峯寺では主殿をはじめとする八ヶ所の建物、常喜院校倉、不動院書院、遍照光院多層塔、西南院五輪塔などがある。
史跡では金剛峯寺境内地にあたる伽藍・奥の院の各所や町石道などは重文に指定され、奥の院参道に点在する豊臣家墓所、禅尼上智碑、高麗陣敵味方戦死者供養碑、武田信玄、勝頼墓地、崇源院殿五輪石塔などが県指定である。
名勝では天徳院の庭園が重文指定、宝善院が県指定となっている。
天然記念物としては、奥の院一の橋から御廟にいたる約2キロ参道周辺の大杉林や高野山駅近くの高野槇の純林が県指定となっている。

 ■ 国宝 多宝塔 金剛三昧院 鎌倉時代

 金剛三昧院は初め禅定院といわれたが、貞応2年(1223)源頼朝公の菩提寺として鎌倉二位禅尼平政子が創建し、現在の寺号に改められた。
 鎌倉様式を伝える数少ない建造物である。

■ 奥の院 一の橋

弘法大師御廟の浄域への入口に当るので一の橋という。
正式には「大渡橋」または「大橋」という。
参詣人をここまで大師が送り迎えをするという伝承があり、お参りする人はここで礼拝して渡る。
この一の橋から御廟までの1.9キロの参道の両側には、何百年も経た老杉が高くそびえて深厳さをたたえている。
その老杉のもとには、20万基を越える各時代の、あらゆる人々の供養等が並んでいる。
高野山は日本第一の死者供養の霊場であり、宗派を越えた日本の総菩提所であることを、この奥の院の墓原は具現している。

 ■ 大名供養塔

 奥の院には約250の大名の中で、110の藩主が供養塔を建てている。
 これほど一ヶ所に大名の供養塔がある処は他にない。
 その多くは和泉や大阪の石工が造り、海や河は舟、九度山からは人力でかつぎ上げた。
 正面の鳥居は死と生の世界の境を示すシンボル。
 中央に死者の魂を祀る五輪塔があり、その周囲を囲む柵には四十九院の仏の名が刻まれ、その中は弥勒の浄土を現している。

 ■ 中の橋

 一の橋と御廟の橋の間にあるので中の橋という。
 正式には「手水橋」。
 平安時代には、ここは禊の場であった。
 別にここに流れる河を「金の河」という。
 「金」は「死」の隠語。
 つまり「死の河」である。
 「三途の川」と同じである。
 この橋を渡ると死の世界に入ることを意味する。
 橋の傍らに嵯峨天皇の棺が飛んで来たという「棺掛の桜」・一年中衆生の苔を代わって受けて汗をかいている「汗かき地蔵」・水面に映る姿の濃淡により命の長短が分かる という「姿見の井」がある。

 ■ 英霊殿

 第二次世界大戦の戦死者供養のため昭和27年(1952)に建立された。

 ■ 御廟の橋

 この橋からいよいよ大師廟の霊域に入る。
 無明の橋ともいう。
 板石は36枚で、橋全体を一尊とし、金剛界37尊を現している。
 36枚の板石の裏には梵字の種子(しゅじ。仏のシンボル)が刻まれている。
 この橋を渡ると仏の浄土へ往くと信じられている。
 また罪や煩悩が除かれるというので無明の橋とも呼ばれた。
 この橋を渡る人は、ここで服装を正し、礼拝し、清らかな気持ちで霊域に足を踏み入れる。
 下を流れているのは玉川で、大師が焼かれた魚を放ったら生きかえったという伝承のある背ビレに黒い斑点のハヤが泳いでいる。

 ■ 灯籠堂

 灯籠堂は真然大徳がはじめて建立されたが、治安3年(1023)藤原道長によって、ほぼ現在に近い大きさの灯籠堂が建立された。
 堂の正面には、1000年近く燃え続けている二つの”消えずの火”がある。
 これは御入定され永遠に生きておられる大師の生命のシンボルなのである。
 その一灯は、祈親(持経とも)上人が献じた「祈親燈」又は「持経燈」、もう一灯は、白河上皇が献じた「白河灯」という。
 この二人は大師の生まれ代わりだといわれている。
 「祈親灯」に対し、同上人のすすめで、貧しいお昭が大切な髪を切って売って献じた「貧女の一燈」と呼ぶのだとの説もある。
 二つの”消えずの火”の他に、昭和になり、ある宮さまと首相の手によって献ぜられた二つの「昭和灯」がある。
 堂内には一ぱいの万燈がかかげられ、地下には小像のお大師さまが各々の奉納者により献ぜられ、堂内一ぱいに祀られている。

 ■ 灯籠堂内部

 日本第一の燈明信仰の場である。
 正面には醍醐天皇から賜った弘法大師の諡号額、両側には十大弟子と真然大徳、持経(祈親)上人の12人の肖像がかかげられている。

■ 弘法大師御廟

御廟は大師信仰の中心聖地である。
各宗派の祖師のなかでもただお一人入定信仰を持つ大師は、今でもここに参るあらゆる人を救いつづけてと信じられている。
御入定後、弟子たちはこの地の定窟に定身を収め、御廟とし、それ以来生前と同様、日々のお給仕をつづけてきている。

■ 女人堂

高野山への入口は、高野七口といわれるように七つの入口があった。
明治5年(1872)女人禁制が解かれるまで、高野山内に入れない女性のために参籠所が設けられていた。
現在はその中でも一番大きかった、不動坂口(京街道口)のが唯一つ残っている。
この女人堂のある登山ルートは登山電車ができ、ケーブルが敷かれてからは表参道のようになっている。

■ 尼僧学院

昭和61年(1986)女性僧侶養成のために大乗院跡地に独立した尼僧学院が完成。
女性僧侶の唯一の道場となっている。

■ 山内の寺院

現在山内には117寺院があり、そのうち53カ寺が宿坊寺院である。
長い年月の間には、2.000余カ院もあったが、度々の火災に記録も失われ、今では寺院の変遷のあとをつぶさにたどることはできない。

当初壇場に設けられた僧房が、伽藍の発展とともに、壇場を中心に、東、西、南、北の四方に室が建てられたのが始まりで、次第に西院、谷上、千手院の各谷に延びていったものと思われる。

古くは登山する人の庵室や、僧房ぐらいしかなかったが、おいおい住房も建てられるようになり、南北朝時代の頃から江戸時代にかけて、大名、豪族らとの間に生じた壇那関係から経済的結びつみも強くなり、菩提寺としてその規模を増大したほか、各地からの参詣者の増加によって宿坊として大きく発展してきた。

西院谷・南谷・谷上・本中院谷・小田原谷・千手院谷・五の室院谷・往生院谷・蓮華谷