伊 予(愛媛県) 

修菩堤の道場26ヶ寺
(40〜65番)

参考:るるぶ 四国八十八ヶ所 / 四国八十八ヶ所詳細地図帳
40  平城山 観自在寺 薬師院

宗派=真言宗大覚寺派
開基=弘法大師
本尊=薬師如来

1番の霊山寺から一番遠いところにあるので、「四国霊場の裏関所」といわれる。

↓ 約 50km

41  稲荷 龍光寺 護国院

宗派=真言宗御室派
開基=弘法大師
本尊=十一面観世音菩薩

三間盆地を見下ろす山の中腹にある。

この寺も、龍光寺と言うよりも、三間のお稲荷さんの方がよく通っている。
そして、キツネは稲荷の使い走りをしていたという関係で、この寺の本堂の前にも石のキツネが鎮座している。

大同二年(807)この地を巡錫していた弘法大師は、稲を背負った老人と遭った。
老人は「われこの地に住み、弘法を守護し諸民に利益せん」と言って姿を消した。
大師は弘法流布を誓いし老人こそこれ五穀大明神の化身ならんと尊像の十一面観世音菩薩を、さらに脇士に不動明王、毘沙門天を刻み、堂宇を建立して安置した。

明治初年の廃仏毀釈令によって石段の上に鎮座。
その下に新しく本堂を建て、大師の刻んだ十一面観世音菩薩を本尊として祀った。

↓ 約 3km

42  一カ(王+果)山 仏木寺 毘盧舎那院

宗派=真言宗御室派
開基=弘法大師
本尊=大日如来

大師が巡錫中、牛を引く老人に出会い、誘いのまま牛の背に乗せてもらった。
しばらく行くと大きな楠があり、大師が唐から東方に投げた宝珠が引っ掛かって光を放っていた。
そこで大師はここを霊地とし、楠で大日如来を刻み宝珠を眉間に納めて堂宇を建てた。

牛にちなんで家畜の守り仏として信仰を集め、疱瘡除けの御利益もあるとされた。
近年はペット供養も多いとか。

弘法大師像には「正和余念(1315)十月五日開眼」という胎内銘入り。

龍光寺に五百メートルほどの間、春はチューリップ、夏はポーチュラ、秋はコスモスなどの街道。

↓ 約 15km

43  源光山 明石寺 円手院

宗派=天台寺門院
開基=正澄上人
本尊=千手観世音菩薩(秘仏 年に一回、8月9日に開帳)

この寺は四国霊場の本関所としておそれ敬われる。

源頼朝ゆかりの「あげいしさん」
昔、若く美しい女神が願をかけて深夜に大石を運んでいたら、いつの間にか夜が明けてしまった。
日が昇るのを見て、女神は驚き姿を消してしまう。
この女神は、千手観世音菩薩ともいわれ、御詠歌の「〜あげ石」はこれに由来するといわれる。

源頼朝が、命の恩人の池の禅尼(平清盛の継母)の菩提を弔う為に権現堂と五輪宝塔の経塚を建て、源氏にちなみ山号を源光山と号した。

延命地蔵のそばの大きな楠は樹齢250年の神木。
熊野の行者が植えた紀州の木。

「十夜ケ橋」
ある時、大師がこの地に巡錫されて行き暮れ、宿を貸す者もないままに橋の下で一夜を過ごされた。
あまりの寒さに、一夜も十夜のように感じたとと歌われたその時の大師の心を思って怖れ慎んで遍路は橋を通る時杖をつかなくなったという。
43番から44番への途中に、その遍路跡として「十夜ケ橋」がある。

  宿坊あり (団体のみ)

↓ 約 84km

44  菅生山 大寶寺 大覚院

宗派=真言宗豊山派
開基=明神右京・隼人
本尊=十一面観世音菩薩

盛時には山内に四十八坊を数えていたが天正年間、長曽我部の兵火にかかって焼失、近くは明治七年に火災に遭う。
当寺は、藩主松平家の祈願所であった。

昭和九年のこと、地元に住む石田ソヨさんに仏様が乗り移り、杉木の根元を掘り起こしてほしいと五ヶ月にわたり願い続けたという。
掘り起こしてみると、なんと地下三メートルのところに130枚のお経石が敷き詰められていて、その下から手のひら大の金仏8体がみつけられたという。

芭蕉50回忌を記念して寛保三年(1743)ニ立てられた塚が、納経所の前の小高い場所にある。
四国八十八ヶ所には芭蕉塚がいくつかあるがその中で一番古い。
「薬のむ 皿でも霜の 枕かな」は44歳のときの作品。
44番札所にちなんで選ばれたという。

放浪の俳人・種田山頭火の句碑も立つ。

  宿坊あり (1泊2食 5500円 要予約)

↓ 約 12km

45  海岸山 岩屋寺 

宗派=真言宗豊山派
開基=弘法大師
本尊=不動明王

山門から266段のきつい石段を上がった岩峰の中腹。
大岩壁の下のわずかな敷地に本道、大師堂、仁王門が並んで立つ。
いかにも行場らしいたたずまい。
伝説によると、弘法大師がこの山に入ったところ、法華仙人という空を飛ぶ神通力をもった女人がいて、大師に深く帰依し当山を献上し大往生をとげた。
そこで大師は木と石の2体の不動明王を刻み、木造を本堂に、石像を山の岩石の中に絶対秘仏として封じ込め、山全体を本尊にしたとされる。
山号は「山高き、谷の朝霧海に似て、松吹く風を波にたとえむ」と、大師が詠んだ歌にちなむ。

もとは44番大寶寺の奥の院だったが、明治七年(1874)に独立し45番札所となった。

寺を囲む岩峰は数千万年前には海底にあったもの。
本堂右側の岩山は金剛峰、左の鐘楼門に面する側は胎蔵界峰とよばれ、昭和十九年、国の名勝地に指定されている。

逼割禅定の入口は、木戸を開けて狭い岩山の間を鉄の鎖(鎖場)を伝って10メートル。
梯子を21段上がると頂上に祭られている白山権現にたどり着く。

↓ 約 28km

46  医王山 浄瑠璃寺 養珠院 

宗派=真言宗豊山派
開基=行基
本尊=薬師如来

境内には、一つの願い事をかなえてくれるという一願弁天さんを祀っている。

「永き日や 衛門三郎 浄るり寺」という正岡子規の句碑がある。

最近の調査によれば、愛媛県下の遍路道の標石は564基あり、その中で、年号の刻まれた最古のものは「へんろ道 貞亨乙丑・・・・・」と自然石に刻まれたものである。
この寺の近くの土用部池の堤防にあり、貞亨乙丑とは二年(1685)である。

境内には樹齢1000年を越す天然記念物のイブキビャクシンがある。

↓ 約 500m

47  熊野山 八坂寺 養珠妙見院 

宗派=真言宗醍醐派
開基=役行者小角
本尊=阿弥陀如来

縁起によれば、役行者が開基の古刹。
文武天応の勅願によって伊予国司越智玉興が伽藍を建立した。
このとき八つの坂を切り開いて建てたことから八坂寺と名付けたと伝える。

往時は12坊と末寺48カ寺ほか寺領を有した。

本尊の阿弥陀如来坐像(県の重要文化財)は、平安中期の名僧恵心僧都の作といわれているが秘仏。
鎌倉初期の石像や宝篋院塔なども多い。

↓ 約 5km

48  清滝山 西林寺 安養院 

宗派=真言宗豊山派
開基=行基菩薩
本尊=十一面観世音菩薩

本尊の十一面観世音菩薩は、秘仏のため誰も直接拝めず、住職さんもお顔を拝んだことがないということである。
ところが、おかしいことに、そのご利益があり過ぎるということで、後ろ向きに安置されているという噂がある。

誰も見ていないので分からぬ筈だが、この噂を信じ本堂の裏に回って拝む人が多いという。

太鼓橋のたもとに正岡子規(1867-1902)の句碑が立つ。
「秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛」
テイレギは太鼓橋のかかる内川に自生する藻の一種。
地元では刺身のツマとして食卓に上がる。
ちなみにこのテイレギは市の文化財に指定されている。
かうって松山市内には正岡子規や種田山頭火などの文化人が住み、俳句が盛んな地らしく「俳句の里城南コース」が設定されている。

↓ 約 3.5km

49  西林山 浄土寺 三蔵院 

宗派=真言宗豊山派
開基=恵明上人
本尊=釈迦如来 (行基菩薩作)

浄土寺というのにご本尊は阿弥陀様ではなく、なぜかお釈迦様。

往昔、孝謙天皇の祈願所であった頃の寺域は八丁四方に及び、六十六坊の末寺をもっていたが、応永四年の兵火で焼失。

現在の本堂は、唐様式の代表作建物として重要文化財に指定されている。

また、この寺には浄土宗の開祖、円光大師、二世聖光上人、三世良忠上人の自作像があり、それが三蔵院の院号となっている。
そのほかに、空也上人自作のの像がある。
口から小さな仏像が六体出ていて、「南無阿弥陀仏」の六文字を意味している。
ちなみに空也上人は、醍醐天皇の第二皇子であった。

↓ 約 2km

50  東山 繁多寺 瑠璃光院 

宗派=真言宗豊山派
開基=行基菩薩
本尊=薬師如来 (座像三尺)

海が見える小高い淡路山の中腹に立つこの寺は、地元の人から「畑寺」とよばれる。
山の上にあった奥の院に対して、里の畑の中にあるという意味だ。

歴代の皇室の尊崇を得た証として、十六弁の紋章瓦が残されている。

また、時宗の一遍上人も寺に留錫し、修学されたという。
民衆と共に踊り舞った時宗の開祖一遍上人は、この地の豪族河野家の出身である。
延宝元年(1239)この地の宝巌寺に生まれ、正応元年(1288)には亡父追善のため、かつて修行したこの寺に三部経を奉納したりしている。

↓ 約 3km

51  熊野山 石手寺 虚空蔵院 

宗派=真言宗豊山派
開基=行基菩薩
本尊=薬師如来 (伝・行基菩薩作)

もとは法相宗であった。

本堂、仁王門、三重塔は文保二年、鐘楼は元弘三年、梵鐘は建長三年のもので、それぞれが国宝、重要文化財に指定されている。

鎌倉時代に石手寺と改名。
これは衛門三郎の生まれ変わりが手に石を握って誕生したことにちなんだとされる。

寺が海とつながっていることを表す干満水の甕が水天堂にある。

「衛門三郎玉の石」
遍路の元祖とされる衛門三郎の伝説にちなんだ「衛門三郎玉の石」が境内に置かれている。
強欲な庄屋・衛門三郎が心を入れ替え、遍路の末、息を引き取る前にやっと弘法大師に会えた。
その際、大師は彼の手に衛門三郎と刻んだ一寸八分(約5センチ)の石を授けたという。
後にこの地方の豪族河野家に男の子が生まれ、握った右手に持っていたのが衛門三郎と書かれた石だった。

↓ 約 12.5km

52  龍雲山 太山寺 護持院 

宗派=真言宗智山派
開基=真野長者
本尊=十一面観世音菩薩 (伝・行基菩薩作)

寺には六人の朝廷の勅願によって高さ1.5メートルの十一面観世音菩薩を六体安置してあり、いずれも重要文化財に指定されている。

真野長者が建てた堂は十間四面貫、釘打ちの無い工法であり特別保護建造物の指定を受けている。

大師堂の左奥に長者堂がある。
この堂には、孤児で、炭焼きをしていたが、三輪明神のお告げで久我大臣の娘玉津姫と結婚し、金鉱を発見して長者となった真野の小五郎と、その娘般若姫を祀っている。
この姫は、用明天皇がその婿になろうと、草刈童にまでなって近づいたという話がある程の美人だったらしい。

↓ 約 2.5km

53  須賀山 円明寺 正智院 

宗派=真言宗智山派
開基=行基菩薩
本尊=阿弥陀如来 (立像三尺五寸) (伝・行基菩薩作)

本堂内にある四メートル余りの龍の彫物は左甚五郎の作と伝えられている。
奥の院は西方二キロ余りにあり印度仏釈迦如来、同観世音菩薩を祀っている。

「二百年以上昔の納札」
霊場に参拝することを「札を打つ」という。
それは、自分の願いを書いた札を、寺の建物のどこかに釘で打ちつけたことに由来する。

この寺には、慶安三年(1650)に京都から来た平人家次という人が厨子に打ち付けていた銅製の札が保存されている。
これを発見したのがスタールというアメリカ人というのも有名である。

大師堂の左横にある高さ四十センチのキリシタン灯籠は、江戸時代初期のものであり、マリア観音が刻まれ隠れキリシタンの信仰に使われたのではないかととの説もある。

↓ 約 35km

54  近見山 延命寺 宝鐘院 

宗派=真言宗豊山派
開基=行基菩薩
本尊=不動明王 (伝・行基菩薩作)

ご本尊は不動明王だが、大日如来の宝冠をいただき、大日如来と合体しているという珍しい像。

寺宝に宝永元年鋳造の梵鐘がある。
この梵鐘は、長曽我部の兵士達が軍用金にしようと掠奪し海上へ運んだとき、梵鐘自ら海中へ沈み掠奪を拒んだ、という伝えがある。

鎌倉時代には凝念国師が、学僧の教科書ともいう『八宗綱要』をここで書いたといわれ、当寺は学問の府でもあった。

寺名の円明寺だが、明治になって郵便制度が出来たとき、郵便物が五十二番の円明寺と間違い双方ともに困ったため、当寺が官許を得、それまで俗称だった延命寺を正式の寺名にしたのである。

「孫兵衛の墓
池普請の時、わざと竹筒に粥をいれて持参させ、農民たちの苦しみを代官に訴えたという利口な庄屋越智孫兵衛の墓が鐘楼の側にある。
上訴は打ち首という時代に、この策略で、収穫の七割を年貢として収めていたのを六割にまけてもらい飢餓の年にもその村からは餓死者を出さなかった。

↓ 約 4km

55  別宮山 南光坊 金剛院 

宗派=真言宗醍醐派
開基=行基菩薩
本尊=大通智勝如来

88カ所で唯一「坊」の名が付く寺。
航海安全の神を祭る大山祇神社へは、海を渡って行かなければならず不便なため、大宝三年(703)ニ南光坊を含む8つの坊がこの地に移された。

書家として初めて芸術院賞を受賞した川村驥山は、昭和二十五年の天皇陛下の午餐会で四国遍路を知り、旅に出る決意をした。
その四年後、娘と四国遍路で訪れた際に書かれた驥山の筆塚が境内に立てられており、書を観るために全国から多くの人が訪れる。
寺には驥山がかぶっていたかぶっていた菅笠も保管されている。
「應無所住而生其心」と書かれた文字は、どんなことにも執着せずに対処せよとう意味とか。

↓ 約 4km

56  金輪山 泰山寺 勅王院 

宗派=真言宗醍醐派
開基=弘法大師
本尊=地蔵菩薩 (座像二尺四寸)(伝・弘法大師作)

この寺では、昭和五十二年八月一日号を創刊号として、毎月三回、タブロイド版四ページ建ての「同行新聞」を発行している。

副住職さんが、印刷機も買い、自分で編集・印刷・発行という一人三役を果たして毎号二千部を出す。
もちろん経済的には赤字だが、寺のあり方の一つとして注目を集めている。

  宿坊あり (1泊2食 5500円 要予約)

↓ 約 4km

57  府頭山 栄福寺 無量寿院 

宗派=真言宗高野派
開基=弘法大師
本尊=阿弥陀如来

この寺でに、寛政十二年(1806)九州から来た人の納経帳が保存されている。

昔、栄福寺の薬師堂の前でフグを食べながら花見をしていた若者たちがお腹が痛くなり、残ったフグを桜の木の根に捨てた。
翌日、寺に来てみると枯れてしまった桜の木を発見。
フグの毒をお薬師さんが代わりに受けてくれたのだといわれている。
以来、病気にならないように今でも薬師堂のお薬師さんの前にあげられた線香の灰を持ち帰る人が後を絶たないという。

本堂前の両脇にある仏足石。
インドのマルポーティー寺院にある菩提樹で足型の拓本をとって庵治石で造られたもの。

↓ 約 4km

58  作礼山 仙遊寺 千光院 

宗派=真言宗高野派
開基=越智守興
本尊=千住観世音菩薩

「おされさん」の名で親しまれている。

阿坊仙人という行者が40年間ここで修行していたが、ある日、仙人の姿が雲と戯れるがごとく消えてしまったところから仙遊寺と名づけられた。

標高三百メートルの山頂からは瀬戸内海の小島が眺望できる。

山門をくぐって石段を50メートルほど登った旧参道沿いに弘法大師の加持水といわれる井戸がある。
多くの人々のさまざまな病気を救ったといわれる。
今でも水を求めてやって来る人が絶えない。

狂い死にの犬
昔、栄福寺と仙遊寺を兼務した住職がいた時、その愛犬に二つの寺のお手伝いをさせていた。
ある時、合図としていた鐘の音が両方ともに鳴ったので、犬はどちらへ先に行くか困って、進退極まり、遂に狂って途中の池に入水自殺したという。
人々は池の畔に葬り、犬塚を設け、その池を犬塚池と名づけたという。

  宿坊あり (1泊2食 5500円 要予約)

↓ 約 7.5km

59  金光山 国分寺 最勝院 

宗派=真言律宗
開基=行基菩薩
本尊=薬師瑠璃光如来

四度の戦火にもかわらぬ宗派
寺の歴史は興廃の歴史でもあり、それを象徴するものの一つとして、所属宗派の変遷がある。
例えば、阿波の国分寺は法相宗から真言宗そして現在の曹洞宗へと三回も変わっている。
それに対して、この寺は、四度の戦火にもめげず時の政治権力にも流されず、真言律宗を守り通してきている。

大寺院であっただけに、書院の展示室には貴重な文化財が多数収蔵されている。
弘法大師が描いた五大尊の絵像一幅、南北朝時代のものといわれる国分寺文書三巻、室町時代作というのが不動明王像の絹本着色などのほか、弘法大師の画像、大般若経もある。
創設当時のものと推測される巴瓦、唐草瓦など、旧国分寺からの出土品も多い。

握手大師像の横にある薬師の壺は、国分寺の本尊でもある薬師如来の持ち物。
祈りながら壺をなでると、どんな病気でも治るといわれている。

春先には大輪の花を咲かせる唐椿が見事。

↓ 約 33km

60  石鎚山 横峰寺 福智院 

宗派=真言宗御室派
開基=役の行者
本尊=大日如来(座像三尺三寸)(伝・弘法大師)

山岳信仰の霊地として知られる四国最高峰の石鎚山。

寺の本堂は両部神道時代に神も仏も有難いのは同じである。
と説いた大師の教義のままに本堂内部に左大臣を祀っており、建築様式は権現造りとなっている。

金剛蔵王権現御正体は檜の寄木造。
平安時代の作で県内最古とされ、愛媛県の重要文化財に指定されている。

初夏は山の斜面をピンクの石楠花が彩る。

↓ 約 17km

61  栴檀山 香園寺 教王院 

宗派=総本山
開基=聖徳太子
本尊=大日如来

用明天皇(在位585-87)の病気平癒を願い、聖徳太子が建立。

山号の由来は、巡錫中の弘法大師が寺の麓で身重の女性が苦しんでいるのを見かけ、唐から持ち帰った大日如来像を本尊の胸に納めて栴檀の香を焚き、護摩修法を行って無事に男の子を出産させたという言い伝えによる。
大師は安産、子育て、身代わり、女人成仏の四誓願と秘法を寺に伝え、ここを霊場に定めた。

  宿坊あり (1泊2食 6000円〜 要予約)

↓ 約 2km

62  天ヨウ(羊+良)山 宝寿寺 観音院 

宗派=真言宗高野派
開基=弘法大師
本尊=十一面観世音菩薩 (伝・弘法大師作)

武家門のような山門の前に、四国88カ所で最古といわれる石の遍路標識が立つ。
江戸時代初期、四国遍路の普及に努めた高野山の僧、真念が建てたとされている。

真念が十数回も四国霊場を調査して著した案内書『四国遍路指南』には、
「いにしへは一の宮」、かうおんじ、よこみねと順に札おさめしかども・・・・・・・今はよこみね、かうおん、一の宮と打」と貞亨四年(1687)「四国遍路指南」にある。

つまり、一の宮(現在の62番宝寿寺)、かうおん(61番香園寺)、よこみね(60番横峰寺)と、現在の順番とは変わっているというのである。

↓ 約 1.5km

63  密教山 吉祥寺 胎蔵院 

宗派=真言宗東寺派
開基=弘法大師
本尊=毘沙門天 (伝・弘法大師作)

門柱に「四国唯一毘沙門天鎮座」とあるように、本尊の毘沙門天は七難即滅、七福即生の霊験あらたかとあって親しまれ崇敬されている。

境内にはカクレキリシタンの遺物であるマリア観音がある。

本堂前に「成就石」と名づけられた大石があり、直径三、四十センチの穴が開いている。
「コノ石ハ昔、石鎚山麓ノ滝壷ニアリシヲ、万治年中当寺ニ納ム。
・・・・・本堂前ヨリ目カクシシテ金剛杖ニテコノ穴目ガケテ進ミ、貫クコトヲ得バ願ヒ事叶フト伝フ」
とあるから、是非一度お試し下さい。

↓ 約 3km

64  石鎚山 前神寺 金色院 

宗派=真言宗石鉄派
開基=役の行者小角
本尊=阿弥陀如来 (伝・役の行者作)

江戸時代には三葉葵の寺紋が許されている。

88カ所のなかでも、最もきれいな形で残っている鐘。
表面に乳(いぼ)が180個付いている貴重なもの。

春になると参道は桜の花が満開になる。

御滝不動尊は、1円玉を投げて岩肌に張り付けば、ご利益があるといわれる。

↓ 約 47km

65  由霊山 三角寺 慈尊院 

宗派=真言宗高野派
開基=行基菩薩
本尊=十一面観世音菩薩 (立像六尺二寸)(伝・弘法大師作)

279回の巡拝記録を持つ人
「奥の院よ是より五十八丁
毎夜御自作厄除大師尊像及御開帳阿リ霊場巡拝の輩は参詣して御縁を結び現当二世の利益を受くるべし  中務義教譚誌」
という案内石がこの寺の本堂の前に立っている。
奥の院とは仙龍寺のことであり、この中務という人は四国巡拝279回という記録保持者である。

「これでこそ 登りかいあり 山桜」
寛政7年(1795)にこの寺を訪れた小林一茶が残した句で、滞在中の日記に書かれていたものだという。
仁王門の左手にある樹齢300〜400年の山桜をはじめ、静かな境内が満開の桜で彩られて華やぐのを詠んだものだ。

↓ 約 27.5km