四国八十八ヶ所 余談・雑談・予備知識・他
 参考 :四国八十八ヶ所詳細地図帖 / 四国八十八ヶ所 / 鷲林寺ホームページ
四国お遍路さん、観音霊場巡礼さんのための 
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巡拝日数の目安
徒歩 = 約 40日
自家用車 = 約 9日
巡拝バス = 約 14日

南無大師遍照金剛
「遍照金剛」とは、お大師さまが唐の国に留学されたときに、その師匠である恵果和尚からいただいた称号であります。「南無」とは「ああ」と感嘆する言葉で、それを続けて唱えれば「ああ、ありがたや弘法大師さま」という意味になります。よって、これをお唱えすることは、すなわちお大師さまにおすがりすることになるのです。遍路はこれをお唱えして巡るのです。

『四国遍路日記』
三百年以上も前の遍路記、承応二年(1653)澄禅という人の『四国遍路日記』にも、「大師ハ阿波ノ北分十里十ケ所霊山寺ヲ最初ニシテ阿波土佐伊予讃岐ト順に御修行也」とある。

捨て往来手形
明治四年までは、旅をするのに身分証明書が必要だった。
ところが、遍路の中には、どこで死んでも自由にして下さい、国許に連絡など不要ですと書いた哀れな手形を持った者が多くいた。
これを捨て往来手形という。

遍路笠と金剛杖
迷いのある身は魔の城のようなもの(迷故三界)、しかし悟りを開けば仏の国に入れる(悟故十方空)という意味の四行句を、また大師と共に行くという意味で同行二人と書く。
金剛杖は大師の身代わりとして捧持し、宿に着くとまずその先を洗い床の間などに立てることになっている。

「辺路」から「遍路」へ
遍路という字は初め「辺路」と書かれていたが(13Cの『醍醐寺文書』、後『*礼又は遍礼』となり(読むのは「へんろ」17Cの『道指南』など)、更に「偏路・編路」などとも書かれ、(19Cの『金草鞋』など)、現在の「遍路」という字が確立したのは(例外的には古くからもあったが)大正の末頃である。

* ヘンは行人偏

遍路ころがし
藤井寺から焼山寺までの16kmの遍路道は88ヵ所で最初の難所。足に自信がつくか、自信をなくすかの分かれ道でもある。男性の足で8時間、女性なら9時間といわれる。

お納経帳
納経とは、巡拝者が寺に経を奉納し、寺がその受けとりを出したことが本来であった。
かつては版章を押すのが普通であったが、漸次墨書が好まれ、現在版章を押しているのは八十八ヶ所中,第四番大日寺くらいである。
なお、何回も遍路する人も、納経帳は新しく作らず、古い帳に版章だけを加押してもらう。

駅路寺文書
遍路にとって大いに難渋したことの一つに、宿をとることがあった。
この寺には、困った遍路などに宿を貸し、ご馳走もしてやれという殿様(蜂須賀茂政)
の文書が保存(第6番札所・安楽寺)されている。
慶長三年(1598)のことで、そういう指定の寺を駅路寺と言い、阿波に八カ寺あった。

参考サイト : こちら(道路資料館)

大師が「空海」と改名された所 24番 最御崎寺
大師は十八歳で、自分の進む道は仏教だと悟られた。
しかし、当時の奈良仏教には満足できず、大峰・高野に入り、阿波の大竜寺まで修行し、ここ室戸の先端に立って、つまり大自然の真ん中に入ることによってほんとの悟りを得た。
それまでの無空・如空・教海から空海という名前に、この地で改めたのだ。

八十八の由来
四国霊場がなぜ八十八か所と定められたかについては、大師が釈迦の八大霊塔の土を持ち帰って、その倍数に撒いたためとか、「八十八使」という人間の感を払う霊場として定められたとか、五十三仏と三十五仏があって、これらの仏像を合わせ拝むためであるとか、煩悩の数や、「米」の字を分解したもの、または男42、女33、子供13の厄年を合わせた数などと諸説あるが、現在のところ、定説はない。

八十八ヶ所のご本尊
八十八ヶ所のご本尊で一番多いのが薬師如来の二十二、次いで十一面観音の十一です。逆にただ一ヶ所だけおまつりしているところが九ヶ所あります。

札の打ちはじめはどこからはじめる
四国遍路は、その人の出身地によって、どこから札を打ちはじめても良いといわれます。たとえば広島県出身の人が神戸まで出てきて明石海峡大橋をわたり淡路島を経由して鳴門の1番札所にやってくるのは大変なことです。それよりもしまなみ海道を使って愛媛に入ったほうがよっぽど合理的です。しかし、本来は1番から順番にまわることが理想です。

順打ち、逆打ち、区切り打ち、一国参り
札所の巡礼方法は大きく分けて4つあります。順打ちとは1番から順番に打っていく方法。逆うちは88番から打っていく方法。
区切り打ちとは順番通りにまわるのではなく、地域を区切って打っていく方法。
一国参りとは徳島・高知・愛媛・香川の一国だけを打っていく方法です。
尚順打ちの場合、1番から10番くらいまでは地形的にも比較的なだらかなところにあり、お寺も近くにあるので打ち始めやすく感じます。
しかし、逆打ちですと比較的きつい地形となっているため、順打ちよりも困難となります。よって、逆打ちはより一層功徳が得れるといわれています。

なぜ“札を打つ”というのか
かつて巡礼者はお寺に納める札に木札を使っていました。その木札をお堂の柱や壁などに打ち付けたので、ここから札を打つというようになりました。現在では、木札のかわりに紙の札を納めますが、そのまま打つという言葉を使っているのです。

お札の起こり
信心深い人が、僧俗関係なしに、決まった特定のコースを定めずに霊験があると信じられていた山を巡って社寺を参詣するのを「巡礼」と呼んでいました。やがて、熊野信仰から、平安時代の貴族たちの間に熊野詣での習慣が生まれ、その道から西国三十三観音霊場巡礼が定まりました。(西国の方が四国よりも早く定まったとされる)花山院(かざんいん)が永延二年(988)三月、熊野路と那智から出発して巡礼されたとき、紀三井寺で「むかしより風にしられぬ燈火の 光にはるる後の世のやみ」と詠われ、木の札に書いて手向けられたのが「お札」の起こりと伝えられます。それがいつの間にか納札の板に変わったのです。

南無大師遍照金剛
「遍照金剛」とは、弘法大師が唐の国へ留学した時、その師、恵果和尚からいただいた称号、つまり坊さんとしての名前である。
「南無」とは「あゝ」と感嘆する言葉であって、それをつづければ、「あゝありがたや弘法大師さま」という意味になる。
よって、これを唱えることは、すなわちお大師様に、おすがりすることになる。
遍路はこれを唱えながら巡礼をするのである。

金剛杖
遍路が一番大切にするものが金剛杖です。杉の白木直径2cm、長さ2mくらいで、上部は4ヶ所に切り込みが入っていて、地水火風空の梵字が書き込んであります。これは五輪塔を形どったもので、卒塔婆の先端と同じです。これは、遍路が途中で亡くなった場合、死体を埋め、その土饅頭の上にこの杖を立てて墓のかわりにしたのです。また遍路中は、杖はお大師さまに見立てて粗末に扱いません。上部を白布や錦で巻き包むのもそのあらわれです。宿につくと、まず自分の手足よりも先に杖を洗い清めるのです。その心は、お大師さまの足を洗う気持ちなのです。常に遍路はお大師さまと「同行二人」なのです。

橋の上では杖をつかない
遍路の途中、橋を渡るときは必ず杖をつかず、引き上げて歩きます。これは、お大師さまが巡錫中、宿に泊めてもらえず、橋の下で休まれ、厳しい寒さの中で一夜が十夜の思いをされたという伝説から「十夜ケ橋」として遺跡に残っています。橋の下にはお大師さまがおられると見立てて、このような約束になっています。

* 十夜ケ橋 = 56号線を44番から45番への途中にある。 近くに、番外・十夜ケ橋がある。

菅笠(すげがさ)と白装束
菅笠にも「同行二人」と書きます。この他に、「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」(まようがゆえにさんがいのしろ さとるがゆえにじっぽうくう ほんらいとうざいなく いずくんかなんぼくあらん)と四句を書きます。これは真言宗や禅宗で、棺天蓋や棺の蓋や骨壷に書く風習があります。これも遍路が死ねば、その上にこの笠をかぶせることによって、棺の代わりにするのだといいます。ちなみに白装束は死衣装です。むかしの遍路は命がけで、死を覚悟しての旅であったのです。

笈摺と板ばさみ
笈摺とは笈を負う時に、摺れないよう白衣の下に着るもの。
後ろを三幅にして、父母のいない者は白、ある者は左右を赤、片親の者は中を赤く染めたという。
板ばさみは、八十八の迷いを持つ遍路の意を表して胸に吊るす。
正面の字は、番号順に廻る人は左、逆の人は右から横書きする風習があった。

参拝の仕方
霊場へ着けば本堂へ進む。
階段を左から上って納め札を納め、浄財を投じ、灯明・線香などを供え終わると右から下りる。(仏法では右廻りを重んじる)階段の下で開経の偈・般若心経・御本尊詠歌・御本尊真言を唱える。
次に大師堂で、大師御詠歌をあげ、大師宝号を唱え、瞑目して願いと感謝の辞を心に念じる。

納経帳
納経とは、巡拝者が寺に経を奉納し、寺がその受け取りを出したことが本来でした。かつては版章を押すのが普通でしたが、次第に墨書きが好まれるようになり現在の形になりました。なお、何回も遍路する人は新しく納経帳を作らず、古い帳に版章だけを押してもらいます。

納札の色
納札の色は、享和二年(1802)の「四国道中手引案内」に、二回青、三回赤、四回黄、五回白、六回黒とあります。天保七年(1836)の「四国遍路道中雑誌」には、七回赤、14回から青、十八回から黄、一回から文字なしの白とあります。最近は、二回青、十回赤、二十回銀、三十回金と定められているようです。

無人売店から接待へ
道端で野菜・くだものが売られ、その横に空き缶がぶら下がり「一袋百円」と書かれています。遍路は一袋をとって百円を入れていきます。いわゆる無人売店です。この風習は、四国路のあらゆるところで見られます。これがさらに徹底すると、お接待というものになります。人を信じ、それが人に施す、人を愛することにつながっていくのです。遍路の根本にあたるものです。

札所と宗派
お大師さまと結びつきが強く、またそれが特色ともなっているので、四国霊場の札所はすべて真言宗と思っている人が多いですが、そうではありません。
江戸時代には神社までが札所でありましたし、現在でも天台宗か四ケ寺(43.76.82.87番)、禅宗が三ケ寺(11.15.33番)、時宗(78番)が一ケ寺あります。

八十八ヶ所の本尊
一番多いのが薬師如来の二十二、次いで十一面観音の十一(いろいろな観音を合わせれば三十)、逆に唯一という本尊を祀っている所が九ヵ所ある。

札所と石段
寺は、山門を入って各堂に向かって上っていくのが多い。
下るのは無間地獄に落ちるようだとして珍しがられたりする。(48番 西林寺、82番 根香寺などがある)
八十八ヶ所石段数が多いのは、71番 弥谷寺の640段、10番 切幡寺の450段、24番 最御崎寺の400段などである。

札所の呼び名
札所寺は、総称としての寺号、その尊敬した呼び名としての山号、寺の中の代表的な建物を表す場合の院号と、普通三つの名を持っている。
札所には、寺号で呼ばれるのが一番多いが、院号がよく通っているもの、稀には「坊」で呼ぶ所もある。
国分寺が四つ、大日寺が三つ、観音寺が二つである。

怖い井戸
大師にまつわる井戸・泉の話は多い。
17番 井戸寺の井戸を覗いて姿が映れば無病息災m映らなければ三年以内に不幸があるという。

関所寺
八十八ヶ所に四つある。

丁石
一番古いのは貞治二年(1363)と刻まれた二丁目の石であり、ざっと600年前のものである。
あと応安元年(0368)の一丁目、六丁目などもあって、県指定の史跡となっている。

札所と大師の開基
寺々の開基だけについてみれば(はっきりしないものも多い)、大師が35、行基菩薩が27、その他が26となっている。
大師は阿波(23中14)、讃岐(23中11)に多く、伊予は(26中8)。

四国病院へ入院
遍路といってもいろいろな人がいる中で、一番真剣な者は、医者にも手離され、ひたすら大師に縋り、奇跡を信じて巡礼する人達であろう。
これを四国病院へ入院するという。
この寺には、大正12年にイザリが治ったという高知の人のものなど三台のイザリ車が奉納されている。

長曽我部元親と札所
阿波や讃岐の大寺のほとんどは、長曽我部元親の戦火に焼かれたという。
ために、現代でも土佐出身の遍路は、阿波や讃岐の札所ではその出身をつい隠すということである。

廃仏毀釈
明治の新政府は、明治元年四月二十八日、「神仏判然の御沙汰」という太政官布告を出した。
それを、地方では廃仏毀釈と受け取り、とくに土佐ではより厳しく受けとり、多くに寺院の廃滅を招いた。
即ち、維新前には615寺もあった寺が、布告のため残ったのは176カ寺となった。

入らずの山
貞観三年(861)平城天皇の第三皇子高岳宮真如法親王は、大師の跡を慕って四国に渡り、35番 清滝寺に来られた。
(このために、この真如法親王を遍路のはじめとする人がある)
親王は更に天竺へ出かけるべく、この裏山に逆修の塔(生存中に建てる墓)を建てられたが、その山を「入らずの山」として尊崇している。

お許しの舟
歩くことを本来とする遍路も、川や海を渡る時は「お許しの舟」と言って乗り物を利用した。
36番 青龍寺へも「龍の串の渡し」があって、スカイラインの開通までは、皆舟で渡った。
大師がこの寺に渡られる時、八人の船頭が案内をしたということで、この渡しの権利はその子孫がうけついできているという。

札所間の距離
本によって距離が違うのであるが、八十八ヶ所をめぐる総行程は約1400km、従って札所間の平均距離は約16kmという計算になる。
最長距離は、37番 岩本寺から38番 金剛福寺で、約100キロメートルある。
最短距離は、68番 神恵院と69番 観音寺のほとんど0mである。

静御前得度の寺
源義経の没後、その愛妾であった静御前は、母磯禅尼の出身地(大内郡小磯)ということで讃岐にやって来て、87番 長尾寺で得度し、「宥心」という尼になった。
その遺跡として剃髪塚、化粧の井戸、義経を忘れようとその形見の鼓「初音」を沈めた鼓が淵、住んでいた庵跡の静薬師などがある。

日本三名狸
84番 屋島寺の狸太三郎は、佐渡の三郎狸、淡路の芝衛独と共に日本三名狸と言われる。
本殿横に祀られ、水商売の神となっている。

地獄の釜首
83番 一宮寺の本堂前に薬師如来を祀る小さな祠の石がある。
この中へ首を突っ込むと地獄の釜の音が聞こえると言われ、罪の深い人は、その石の扉が閉まって首が抜けなくなると言う。

多宝塔の建立
四国札所には現在五重塔が四塔ある。
70番・本山寺、75番・善通寺、86番・志度寺で、三塔が香川県。あと一塔は高知県の31番・竹林寺にある。

讃岐の五大師
貞観八年(866)最澄に伝教大師という大師号が贈られてから、明治になるまでに、十七人の大師が生まれている。
そのうち、76番・金倉寺から出た智証、「大師は弘法」の弘法、空海と同じ佐伯氏出身の道興、空海の俗弟子法光、修験の理源と、五人が讃岐出身であり、よにこれを「讃岐の五大師」と呼ぶ。

89mの戒壇めぐり
75番・善通寺の御影堂の地下に、能満所願の本尊をお祀りした戒壇めぐりがある。
中程の、大師がお生まれになった下の所に祭壇が設けられている。

大師のままごと遊びの遺跡
大師は、多度郡の郡司であった父佐伯直田公(善通)と、母阿刀氏(玉依姫)の三男として宝亀五年(774)六月十五日、74番・甲山寺の地に誕生した。
幼名を真魚と言い、小さい時から土で仏を作って祀るという遊びをよくした。
その遊び場はこの寺の東の辺で、仙遊が原と言い、地蔵堂やその飼犬を埋めたという犬塚などがある。

五十基の遍路墓
雲辺寺は海抜千メートルと、高地にあるために、67番・大興寺へ下る道は難所となる。
最近の調査で、その間に五十基ほどの遍路墓のあることが分かった。
北は武蔵国、南は豊後国と全国にまたがり、時代は享保年間(18世紀の初)のものからある。

成就石
63番・吉祥寺本堂前に「成就石」と名づけられた大石があり、直径三、四十センチの穴が開いている。
「コノ石ハ昔、石鎚山麓ノ滝壷にアリシヲ、万治年中当寺ニ納ム。・・・・・本堂前ヨリ目カクシシテ金剛杖ニテコノ穴目ガケテ進ミ、貫コトヲ得バ願ヒ事叶フト伝フ」とある。

変わった札所の道順
「いにしへは一の宮、かうおんじ、よこみねと順に札おさめしかども・・・・・今はよこみね、かうおん、一の宮と打」と貞亨四年(1687)『四国辺路道指南』にある。
つまり、一の宮(現在の62番宝寿寺)、かうおん(61番香園寺)、よこみね(60番横峰寺)と、現在の順番とは変わっているというのである。

遍路のための新聞発行
56番泰山寺の副住職さんが、昭和五十二年八月一日号を創刊として、毎月三回、タブロイド版四ページ建ての「同行新聞」を発行している。

年号に刻まれた最古の道標
愛媛県下の辺路道の標石564基あり、その中で、年号の刻まれた最古のものは「へんろ道 貞亨乙丑・・・」と自然石に刻まれたものである。
コノ寺の近くの土用部池の堤防にあり、貞亨乙丑とは二年(1685)である。

銘入りでは日本最古の大師像
42番・仏木寺の弘法大師像に「奉造営弘法大師御影像 正和四年十月五日御開眼」という墨書の胎内銘のあることが発見された。
正和四年とは1315年で鎌倉末期、胎内銘入りの大師像といSては日本最古ということも大変だが、この時代既に南予地方にまで大師信仰が定着していたことが証明されることに意味がある。

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