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 奈良市街

奈良市街は歩いて回れるほどのせまいところだが、仏教文化の最盛期であった天平時代の遺産をはじめ豊富な文化財に恵まれて、みどころは実に多い。
もと平城京の外京であった古都であり、興福寺などの門前町として栄えた面影は市街のいたるところに残されている。
緑の木陰に鹿の群れ遊ぶ奈良公園付近は四季を通じて観光客の賑わいが絶えないが、飛火野や雪清ノ沢、あるいは新薬師寺のある高畑あたりなど、静かな散策を楽しめるところも少なくない。

 奈良市

大和盆地の最北部、標高100〜500mの地にあり、1200年以上の古い歴史をもつ古都として世界的に有名な観光都市である。
北は京都府に接し、東部に笠置山地からつづく大和高原をひかえ、市街の西から南に平地の田園地帯が広がり、風光にも恵まれている。
市制が施かれたのは1898(明治31)年であるが、昭和25年、奈良国際文化観光都市建設法が施行されて以後、周辺の町村を合併して市域が広がった。

[歴史]

710(和銅3)年藤原京から奈良の地に開いた平城京へ都が遷され、以後7代74年余りにわたり日本の首都でもあった。
784(延暦3)年長岡へ遷都、平城京は概ね荒廃したが、当時外京と呼ばれた東部山側の地には藤原一族の氏寺・氏神である興福寺・春日大社、さらに総国分寺の東大寺があり、これらの寺社を中心に繁栄をつづけた。
治承の兵火で東大寺・興福寺は焼き討ちにあったが、源頼朝の援助で復興し、奈良は門前町としていっそう発展した。
商業や手工業も発達し、中世に寺社は座を組織した。
1560(永禄3)年には松永久秀が多聞城の構築に着手、奈良ははじめて武家の支配下に置かれた。
豊臣秀吉は弟秀長を郡山城主として奈良には奉行を置いた。
江戸時代も町政は奈良奉行によって扱われ、戦国時代に焼失した大仏殿の復興が成ると”奈良参り”が流行、観光都市の性格を強めるようになる。
明治以後は古文化と自然美を観光資源とする発展策を確立。
1887(明治20)年奈良県が置かれて県下の政治・商業の中心地にもなった。

[産業]

一般産業はあまり盛んではないが、観光客向けの伝統工芸や奈良漬などの特産品がある。
近郊では阪神の市場向けに野菜栽培も行われている。

[繁華街]

JR奈良駅前から猿沢池に通じる三条通りが市街のメインストリートで三条通と近鉄奈良駅を結ぶせまい東向通りはショッピングの中心地としてもっとも繁華なところである。
そのすぐ南の餅飯殿通りも賑やかな商店街で、元林院・南市の旧花街を控えている。
また、元興寺周辺は古くから商いの町として栄えたところで、現在でも町家や蔵など中世のたたずまいが残り、”奈良町”として景観保存・修景が進んでいる。

 奈良歴史教室

近鉄駅ビルの4・5階を占めて、奈良県の歴史を精巧な模型やパネルでわかりやすく展示している。
古墳時代から飛鳥・天平時代の文化を中心に奈良旅行の基礎知識となる古美術の特色が理解できる。

 奈良公園

奈良市街の東側一帯。
広々とした芝生に鹿が群れ遊び、古社寺の堂塔が木の間越に望まれる自然公園である。
東西4Km、南北2Km、総面積は5.25kuにも及ぶ大公園で、1880(明治13)年に公園として整備された。
ここには興福寺・東大寺・奈良国立博物館・春日大社をはじめ、若草山・御蓋山・春日奥山も含まれ、自然の中に歴史的建造物がしっくり溶け込んで美しい景観を見せている。
南北横断プロムナードは、アセビやサクラの遊歩道になっている。
三条通から春日大社の参道へ入ると、右手に芝原が広がり、浅茅ガ原・飛火野・雪消ノ沢など、大宮人が野遊びを楽しんだ地名が残る。
芝原の中の荒池や鷺池が風情ある景観を見せている。

 猿沢池

三条通り辷り坂の南側にあり、もと興福寺南大門前の放生池であった。
周囲約360mの小さな池だが、池面に興福寺の堂塔の影を落として景色がよく、池中には鯉や亀が多い。
むかし帝の寵愛が衰えたのを嘆いて、この池に身を投げた采女の伝説でも知られ、池畔の南東に采女が衣を掛けたと伝える衣掛柳、池の北西角に鳥居を背に社殿がうしろ向きに立っている采女神社がある。

 采女神社

猿沢池に入水した采女の霊を祭って、池畔に建立したとところ、身を投げた池を見るにしのびず、社殿は一夜で向きを変えてしまったと伝えられる。

 采女祭 (中秋 旧暦8月15日)

 興福寺 [史跡]

とりたてて境内を仕切るような塀もない松林の中に、中金堂・東金堂・北円堂・南円堂・五重塔・三重塔・国宝館などの堂塔が点在している。
現在は全境域が4kuだが、全盛期の境域は約50ku、堂宇175を数え、大和一国を支配する大寺であった。
たびたびの兵火や火災にかかり、創建当初の堂塔は一基も残っていないが、天平彫刻をはじめとする寺宝はさすがに豊富である。

[歴史]
藤原鎌足の遺志をついで、夫人の鏡女王が山城に建てた山階寺が前身である。
その後飛鳥地方に移り厩坂寺と名を改めたが、さらに平城遷都につれ、鎌足の子藤原不比等によって再び奈良へ移され、興福寺と呼ばれるようになった。
寺伝に710(和銅3)年の移転と伝えられるが、伽藍の造営は和銅末期から霊亀・養老のころであろう。
その後、藤原氏の権勢は皇室との縁組によって強まり、北円堂・東金堂・五重塔などが建てられ、さらに官寺に遇され、南都七大寺の一つに列するようになった。
古代・中世を通じて大和一円に権勢を張り、京都の比叡山と並んで南都北嶺と称された。
1180(治承4)年平氏の南都焼討ちで主要な堂塔を失ったが、その復興にともなって鎌倉彫刻の優品が生み出されたことは注目に値する。
その都度復興をくり返したが江戸時代、1717(享保2)年の大火にあったときは、もう復興の力はなく、さらに明治の廃仏毀釈では一時的に廃寺同様となり、境域の大部分を失った。

南都七大寺

”延喜御記”によれば東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の7ケ寺。
法隆寺を除き、唐招提寺を加えることもある

南都北嶺

南都は奈良、北嶺は比叡山。
はじめ奈良仏教と、新興の比叡山天台宗との対立関係の称であったが、南都諸大寺のうち興福寺の勢力が増大すると大荘園・僧兵をかかえて強訴を行う興福寺・延暦寺の2大勢力をさすようになった。

廃仏毀釈

仏教を廃し、寺・仏を毀すこと。
1868(慶応4)年、それまでの神仏混交を廃し、神社・神官を寺院から切り離す神仏分離令が布告されると、たんなる分離にとどまらず、全国的な仏教排斥運動へと発展した。

南大門跡

三条通に面して土壇が残り、礎石と敷石だけが、かつての南大門の規模を伝えている。
正面5間、側面2間、興福寺の総門にふさわしい雄大な建築であったというが、享保の大火で焼失。
以後再建されなかった。

中金堂

南大門跡の北正面にある。
創建当初は興福寺の伽藍の中心をなす建物として、おそらく最初に着手された建築であろう。
たびたびの火災にかかり、現在の堂は1819(文政2)年に建てられた仮堂である。
堂内に安置されていた本尊釈迦如来坐像をはじめ、有名な脇侍薬王・薬上菩薩立像、四天王立像などの優れた鎌倉仏は、現在、すぐ後方の講堂跡に立つ仮金堂に収められている。

東金堂 (国宝)

中金堂の左右に東金堂と西金堂とがあった。
東金堂は726(神亀3)年聖武天皇の再建であるが、現在の堂は、1415(応永22)年に再建されたもので、正面7間、側面4間。単層、寄棟造、本瓦葺、奈良時代の伝統にのっとた室町時代の復古的建築である。

[薬師三尊像]

須弥壇上に安置している。
本尊薬師如来坐像は、銅造、高さ2.7mで15世紀初めの擬古作だが、日光・月光菩薩両脇侍像は銅造2.57mで、12世紀末飛鳥の山田寺から奪って移した薬師三尊の脇侍で白鳳時代の作と考えられている。

五重塔 (国宝)

南大門跡の東方、石壇上にそびえ立つ興福寺のシンボル。
730(天平2)年光明皇后の願による建立以来、東金堂と同様に数回の火災にかかりながら、その都度復興されている。
総高50.8m、古塔としては京都東寺の五重塔(55m)に次ぐ高塔で、各層方3間、本瓦葺、純和様、天平の規模をよく再現した室町時代の復古的建築である。

北円堂 (国宝)

中金堂の西北にある。
1208(承元2)年に再建された鎌倉復興期の建築で、簡素で力強い意匠に鎌倉初期の特色をよく伝えている。
八角円堂、単層、本瓦葺、堂内の内陣には弥勒仏坐像、世親菩薩立像など諸仏を安置し、内陣天井を美しい天蓋で荘厳している。

[弥勒仏坐像]

北円堂の本尊で、高さ1.42m桂材の寄木造、運慶が弟子の源慶・静慶らを指導して、1212(建暦2)年ごろ完成した鎌倉彫刻の秀作。

南円堂 (重要文化財)

南大門跡の西方にある。
813(弘仁4)年藤原冬嗣の創建だが、現在の堂は、1741(寛保元)年に再建された江戸時代の建築である。
堂は八角円堂で、単層、本瓦葺、西国三十三カ所第九番の札所として庶民の信仰を得ている。

三重塔 (国宝)

南円堂の後方、一段低い所に立つ美しい塔。
1143(康治2)年待賢門院の願によて創建された塔が焼けたのち、鎌倉時代に再建された復古的建築の一つである。
高さ18.4m、各層方3間、平安期の優美さを伝える繊細な和様建築。
内部の彩色はほとんで剥落している。

西金堂跡

中金堂の南西。
南円堂と北円堂の間にある小高い芝地に、”西金堂跡”の石碑がぽつんと立っている。
734(天平6)年光明皇后がその母橘三千代のために建立し、堂内には有名な八部衆立像をはじめ、優れた天平彫刻群が安置されていた。
享保の大火以後は再建されず、諸仏は諸仏は現在国宝館に移されている。

国宝館

細殿・食堂跡に立つ総面積1122uの鉄筋コンクリート造りの宝物収蔵庫で、同時に展示場でもある。
外観は天平様式の細殿・食堂を模して2棟になっているが、内部は直結している。
興福寺の各堂に安置されていた仏像の大部分をはじめ、絵画・書・考古資料・工芸品など2万点を収蔵し、63点に及ぶ国宝・重要文化財が展示されている。

大湯屋 (重要文化財)

五重塔の東方。
柵内にあり、もとは興福寺の浴場で、また衆議所でもあった。
現在の建物は室町時代の建築で、内に口径136cm、高さ124cmの湯釜がある。

菩提院 (興福寺塔頭)

大湯屋と三条通りを隔てている。
玄ムの創建と伝えられ、いまの建物は室町時代に再建されたもの。
本尊の木造阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の作。
むかし僧たちが動行するとき、明け六つと暮れ七つを合図に13の鐘をついたので、俗に十三鐘とも呼ばれる。
堂前とも呼ばれる。
堂前の東側に石子詰伝説で知られる三作塚がある。

石子詰伝説

むかし奈良の鹿は春日大社の使徒とされ、殺せば死んだ鹿といっしょに穴へ入れられ、石を投げこむ”石子詰”の死刑と定まっていた。
ある日、三作という13歳の少年が誤って鹿を殺し、ここで石子詰の刑にされた。
三作の死を悲しんだ母親が供養にと植えたモミジの木があり、鹿とモミジのとり合わせはここから出たという。

 奈良県文化会館

昭和43年に建設された県民の施設。
もとは興福寺の境内であったところである。

 奈良県立美術館

奈良県庁の北隣。
外観は寺院建築を模したスマートな鉄筋2階建。

 奈良女子大学

佐保川のほとりにある国立の女子大学。
1908(明治41)年に奈良女子高等師範学校として創立された。
昭和24年新制大学となった。

 称名寺

茶道の村田珠光が止住していた寺として有名で、彼の庵の跡である珠光庵(独爐庵)のほかに、境内には本堂・地蔵堂のほか、室町期の石仏千体地蔵がある。
古くは興福寺の別院であって興北寺と号した。
興福寺の僧専英と琳英が京都西山の三鈷寺の澄忍に入門。
1265(文永2)年この三僧によって浄土宗の寺として開創された。
弘仁期の一木造で特異な作風の薬師如来立像や、室町期の一木造の地蔵菩薩立像などがある。

珠光忌 (5月第2日曜)
朝八時三十分から境内で盛大な茶会が催される。
珠光庵では濃茶、書院では薄茶の点前があり、庭では野点が行われる。
本堂では珠光の位牌と珠光像を祭って法要を営む。

 西方寺

724-28(神亀年間)年に行基が多聞山に創建したと伝えられる。
室町時代に松永久秀が多聞城を築いたため、現在の地に移され再興されたという。
本尊阿弥陀如来像は、藤原時代の作。
寺宝中の絹本着色地蔵十王図は、挑戦李朝期のものといわれている。

境内に”厄除け銀杏”と呼ばれるイチョウの大木がある。

 漢国神社

率川神社とともに推古天皇元年に創建されたと伝えられる。
奈良時代以降、藤原氏の崇敬を受けて栄えたが、中世以降は衰えた。
境内には”まんじゅう”の神を祭る珍しい林神社があり、製菓業者の信仰をあつめている。

 饅頭祭 (4月19日、境内社林神社)

林神社

祭神は林浄因で1338-42(暦応年間)年中国から渡来し、まんじゅうの製法をわが国に伝えたという。
側に浄因が築いたという饅頭塚がある。

 開花天皇陵

三条通の北側、少し奥まったところにある。
開花天皇の陵と伝えられ、堀をめぐらせ、松が茂る。
陵の南北の長さは約100m、前方後円式ではもっとも古い御陵とされている。

 率川神社

三条通の近く。
平城遷都以前の古社で神社の前を流れる小川が記紀にも記された率川である。
拝殿奥に3棟の神殿が並び、中殿には神武天皇の皇后五十鈴姫命を祭り、右殿に姫の父神、左殿に母神を祭る鎮座の形式から、一般に”子守さん”と呼ばれ、子育加護の信仰がある。
古式ゆかしいユリ祭りもよく知られている。

 三枝祭 (ユリ祭り 6月17日)

 伝香寺

鑑真和上の弟子で和上とともに来日した思託律師が、771(宝亀2年)年に開いたと伝えられている。
その後荒廃していたが、1585(天正13)年筒井順慶の母、芳秀宗英尼が順慶追善のために再興、以後筒井氏菩提所となった。
本堂・御霊殿などが立ち、境内にある”散り椿(筒井順慶に因んで「武士椿」ともいわれる)”は奈良三名椿の一つとして知られる。

[地蔵菩薩立像]

もと興福寺延寿地蔵堂にあったと伝えられる鎌倉時代の彫刻、高さ97.5p、寄木造、彩色の裸形像で、俗に裸地蔵といわれて有名である。
昭和二十五年の修理で胎内からレース編みの袋に入った瑠璃の舎利壺や十一面観音小像の願文など、珍しい納入品が発見された

 大安寺 [史跡]

奈良市街南西部のはずれに見える小さな森が現在の大安寺境内である。
聖徳太子が平群に建立した熊凝精舎が草創と伝えられ、その後都とともに寺地を移し、百済で百済大寺、飛鳥で大官大寺と呼ばれ、平城遷都では右京の薬師寺に対して左京六条四坊に建立された国家鎮護の官寺であった。
745(天平17)年、天下太平万民安楽の意味をこめて大安寺と命名され、南都七大寺のうち三論宗の根本道場として重きをなし、大安寺式と呼ばれる壮大な伽藍を誇り、南大寺とも呼ばれていた。
中世以降、しだいに寺運が衰え、明治の初めに堂塔のすべてが絶えた。
現在の本堂・嘶堂は近年の再建である。
本尊は秘仏十一面観音立像で開扉は10〜11月。
収蔵庫の諸仏と、境内の南、八幡神社付近に残る巨大な東西両塔跡が、わずかにかつての寺勢を伝えている。

嘶堂 いななきどう

秘仏馬頭観音を安置。
秘仏開扉3月2の午の日と10月1日〜11月30日。
堂内の絵馬も見逃せない寺宝の一つ。

 光仁会 (笹酒 1月23日)

讃仰殿

境内の東に立つ昭和38年建立の収蔵庫。
内部の壇上には四隅の四天王に守られて、聖観音・不空羂索観音・楊柳観音と、合わせて7体の木彫像が並んでおり、大安寺様式と呼ばれる重厚な造形で有名。
いずれも天平末期から弘仁時代にかけての作とされる。

楊柳観音立像

大安寺の木彫像を代表する秀作。
観音像では珍しく憤怒相だが、おさえた静かな表現になっている。

 元興寺 [史跡]

元興寺はかつては飛鳥寺を草創とするわが国でもっとも古い大寺の一つであった。
平城遷都によって現在地に新しい伽藍を建立、南都七大寺の一つとして栄えたが、都が京都へ移ると次第に寺勢は衰え、平安時代には伽藍の大部分を失い、その後わずかに残っていた五重塔・観音堂も1859(安政6)年に焼失した。
元興寺の往時の面影をわずかながらも伝える元興寺(塔跡)・元興寺極楽坊・元興寺小塔院跡の3地域が史跡に指定されている。

 元興寺 塔跡 [史跡]

猿沢池の南、民家と古い寺院の並ぶ一角にある。
門前に”史跡元興寺塔跡”の碑が建ち、民家に押し込められたような境内に仮堂と塔跡を残す。

薬師如来立像は弘仁期彫刻の代表的作例といわれる。

 元興寺 極楽坊 [史跡]

元興寺(塔跡)のすぐ北にある。
平安時代後半からの元興寺衰退の中で、鎌倉時代に僧坊の一部を改造し智光の遺した極楽曼荼羅を祭る極楽坊が成立。
鎌倉期以降の中世を通し、庶民の浄土信仰の中心として栄えた。
東門はもと東大寺西南院の門を移築したもの。

 柴燈護摩会 (火渡り、2月節分)

本堂

鎌倉初期に禅室と1棟であったのを別棟とし、さらに1244(寛元2)年根本的に改築された。
天平時代に特有の行基葺という屋根の重ね瓦葺が珍しい。
智光曼荼羅図を本尊として内陣厨子内に祭り、前に木造智光法師像などを安置している。

禅室

元興寺の東室南階大房の12房のうちの4房分にあたり、鎌倉初期に大改造してあるが、天平時代の僧房の形を知ることのできる建物として重要。
一間ごとに板扉と連子窓を設けてある。

収蔵庫

本堂の南側にあり、木造阿弥陀如来坐像などの寺宝を展示、中世の庶民信仰資料6万点などを保存している。
隣に元興寺文化財研究所がある。

五重小塔

収蔵庫の主要な展示品の一つ。
天平時代に作られた大塔の模型といわれ、高さ約5.6m、初層の平面は方1m、塔跡と比較すると、大塔の10分の1くらいと考えられる。
古代建築技法を知る貴重な資料。

元興寺文化財研究所

昭和42年に創立。
寺の収蔵庫に残る数万点に及ぶ中世庶民信仰資料の整理・調査のほか、広く各地の仏教民俗資料の調査研究、出土遺物の科学的保存処理も行う。
生駒市に同研究所保存処理センターがある。

 元興寺小塔院跡 [史跡]

元興寺小塔院のあったところである。
今は仮本堂と崩れかけた弁天堂が残るだけで、町中にあって見落としそう。
元興寺収蔵庫に展示されている五重小塔はこの場所にあったとの説がある。

 庚申堂

小塔院跡のすぐ北にあって民家にはさまれた小さなお堂。
内陣の厨子に青面金剛立像(庚申)などを祭っている。
現在もこの町には庚申講があってむかしのとおりに祭られており、町内各家の軒先にお守りの”身代わりサル”が吊り下げてある。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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