行事===
「始業式」 一月七日
祇園甲部は女紅場学園、祇園東はお茶屋組合二階、宮川町は東山女子学園、先斗町は鴨川学園。
上七軒は一月九日に歌舞練場。
芸妓・舞妓の誓い (祇園甲部)
一 私たちは常に美しく優しく親切にいたしましょう
一 私たちは祇園の伝統を誇りとし、心の修養につとめ芸妓の習得に励みましょう
一 私たちは善良の風俗を乱さない様、清潔でありましょう
一 私たちは京都の国際的地位を認識し、新知識の吸収に意を用い、視野を広めましょう
一 私たちは常に良き風習をつくり、皆さんから愛されましょう
芸舞妓は黒紋付を着て、舞妓は一月の簪、芸妓は赤玉の簪。
舞妓は本物の稲穂を右側前方、芸妓は左側前方に挿し、縁起ものであるこの稲穂から三粒を貰って財布に入れておくと、お金が入ってくるという。
祇園甲部では、井上八千代師が地唄舞「倭文」を舞う。
「初寄り」 一月一三日
祇園甲部では、芸妓・舞妓が井上八千代師の家に集まり、お屠蘇とお雑煮で新年を祝う。
「節分とお化け」 二月三日 または 四日
氏子になっている八坂神社と北野天満宮では、芸舞妓の奉納舞があり、その後、豆まきがある。
夜には、「お化け」という行事が行われる。
仲の良い芸舞妓が数人で組んで、仮装してお座敷を回る。
「梅花祭」 二月二五日
菅原道真公の命日にあたり、北野天満宮では「梅花祭」が行われ、上七軒の芸舞妓たちによる野立てがある。
「水明会」 三月初旬
先斗町の踊りや鳴り物など芸事の発表会。
日頃の芸の研鑽の成果をみせる本格的な舞台です。
「大石忌」 三月二十日
お茶屋「一力」の行事。
「仮名手本忠臣蔵」の七段目に「祇園一力茶屋」が登場する。
大石内蔵助が切腹したのは1703年(元禄十六)、旧暦二月四日で、太陽暦では三月二十日に当たる。
これを偲び、「深き心」を井上八千代師が舞い、一力で見習をした芸舞妓三人が地唄「宿の栄」を舞う。
一力亭の招待状が必要
「春のをどり」 四月
祇園甲部
「都をどり」 1日〜30日 祇園甲部歌舞練場
宮川町
「京おどり」 第一日曜〜15日間 宮川町歌舞練場
上七軒
「北野をどり」 15日〜25日 上七軒歌舞練場
*おまんじゅうののってくる菓子皿は、記念に持ち帰れます*
「平安神宮奉納舞」 四月十六日
若い芸妓が、舞を三曲、奉納する。
「鴨川をどり」 五月一日〜二十四日
先斗町歌舞練場。
第一部がお芝居、第二部が踊りの舞台で、お芝居があるのは先斗町と上七軒のみ。
祇園放生会 六月四日
比叡山から僧をまねき、供養した鯉の稚魚を白川に放流します。
祇園申部の舞妓さんも参加。
「京都五花街合同ー伝統芸能特別公演 -都の賑い-」 六月下旬の土・日
各花街ごとに芸舞妓さんが接待する夜の宴会つきのパック・チケットも売り出されます。
「みやび」会 七月初旬
舞の上達や健康を祈念する会。
祇園甲部では毎年芸舞妓がそろいの浴衣を新調し、井上八千代師とともに八坂神社にお参りする。
みやび会
都踊りの名称についても議論があった。
最初は「みやびをどり」が候補に上がったが、井上流の家元・片山春子は
「”みやび”の”び”の語感が悪いので”都踊り”がどうでしょう」ということで、決まった。
この時、春子師は「みやび」の言葉を頂きたいと申し出て、井上流の舞の会に、「みやび」会という名がつけられた。
「祇園祭宵宮神賑奉納」 七月十五日
祇園祭の宵宮祭に、祇園申部の舞妓さんの京舞の奉納があります。
「花笠巡業」 七月二十四日
祇園甲部・祇園東・宮川町・先斗町の四つの花街の芸舞妓が参加。
「花笠巡業奉納舞」では、舞妓は「舌きりすずめ」を題材にした「すずめ踊り」を奉納。
「上七軒ビアガーデン」 七月一日〜八月三十一日
上七軒歌舞練場の庭園にて、芸舞妓全員が当番制で参加。
「八朔」 八月一日
芸妓や舞妓が芸事の師匠やお茶屋などへ挨拶回りをする日。
祇園甲部では、絽の黒紋付きという正装をし、おふくを結っている年長の舞妓は、髪を奴島田に結う。
*朔日とは一日のこと
「温習会」 十月一日〜六日
祇園甲部歌舞練場で、芸妓・舞妓が日頃励んできた、井上流京舞を披露する発表会。
春の花やかなをどりに対し、しっとりとした優雅な京舞。
「ずいき祭」 十月四日
北野天満宮の氏子である上七軒の芸舞妓がお茶屋の玄関先に並び行列を見送る。
「時代祭」 十月二十二日
昭和二十五年から行われるようになった婦人行列は、花街が交代で参加している。
小野小町、静御前、巴御前に扮装して参加する。
「祇園をどり」 十一月一日〜十日
祇園東の祇園をどりが祇園東歌舞練場にて。
先斗町の秋の鴨川をどりが無くなってしまったので京都の秋のをどりは、祇園東のみ。
「かにかくに祭」 十一月一日
祇園をこよなく愛した吉井勇(1886〜1960)を記念する行事。
「かにかくに祇園は恋し寝る時も 枕の下を 水の流るる」という歌を詠んだ。
吉井勇の誕生日である十月八日に向けた準備が一か月遅れ、十一月八日に除幕式が行われた。
この歌の歌碑は、文学芸妓の多佳のお茶屋「大友」跡に建つ。
多佳は多くの文人墨客と親交があり、夏目漱石や高浜虚子や谷崎潤一郎など。
//
紅燈歌人、吉井勇が酔いしれた花街祇園
祇園を流れる白川沿いの新橋畔に吉井勇の歌碑がある。
鞍馬石に祇園情緒を歌った「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」が刻まれている。
昭和三十年、勇の古希を祝って建てられた。
吉井勇は実は京都ではなく東京の生まれ。
父親は伯爵。
つまり華族の子供である。
若い頃から紅燈狭斜の巷を愛し、早稲田大学を中退している。
いわば放蕩息子である。
貴族院の議員だった父親はそれでも息子に寛大で「好める道なら仕方がない。然し其の道に秀でよ」と遊蕩費を惜しまずに勇に与えた。
その結果、紅燈歌人として名を残したのだから、父親としては先見の明があったことになる。
明治三十九年(1906)、二十一歳の時にはじめて祇園に遊んでから毎年のように出かけ、花柳界の艶冶な世界に耽溺した。
「かにかくに」は、明治四十三年(1910)に森鴎外を顧問とする雑誌「スバル」に発表されたもの。
二十代の作である。
当時、白川沿いに「大友」というお茶屋があった。
女将の磯田多可佳女が文学好きで、吉井勇だけでなく夏目漱石、谷崎潤一郎、志賀直哉、里見?らがここで遊んだ。
奥座敷はちょうど鴨川の川床のように白川の流れの上に張り出していた。
吉井勇はこのお茶屋「大友」に泊まり、「枕の下を水のながるる」の想を得た。
「大友」は戦時中の建物疎開によって取り壊されてしまったが、往時は隠れ里のようなひっそりとした良さがあったらしい。
京都生まれの作家。秦恒平によれば、白川は戦前まで家と家とのあいだを隠れるように流れていて、橋の上に立ち止まりでもしない限り、川面を見ることはできなかったという。
「枕の下を水のながるる」はそうした白川のほのぐらく、なまめかしい水の流れから生まれている。
祇園を歌った吉井勇の歌には「伽羅の香がむせぶばかりににほひ来る祇園の街のゆきずりもよし」というなまめかしいものがあるかと思うと、祇園の柳をパリのマロニエにたとえた「巴里の風橡を吹くにもまがふべし祇園の風は青柳を吹く」というハイカラな歌もある。
若い頃は各地を転々としたが、五十歳を過ぎてからは京都に落ち着いた。
紅燈歌人としては京都こそが故郷と思い定めたのだろう。
祇園への愛情は変わることなく、戦後復活した「都をどり」の歌詞を作り続けた。
毎年十一月八日には歌碑の前で吉井勇を偲ぶ「かにかくに祭」が行われる。
碑が立つ場所はかつて「大友」があったところ。
歌碑の傍らに女将の多佳女が愛したというアジサイが植えられている。
「お献茶」 十二月一日
北野天満宮に献上するお茶席が設けられ、上七軒歌舞練場の二階で芸舞妓がお手前を披露する。
「顔見世総見」 十二月初旬
南座で東西の人気役者の「顔見世興行」が二十六日間行われる。
南座の正面には”まねき”と呼ばれる各役者の看板が掲げられ、この興行の五日間、桟敷に芸舞妓が総見する。
舞妓の簪には餅花とミニチュアのまねきが付いていて、そこに好きな役者のサインをしてもらうのが習わし。
「事始め」 十二月十三日
この日からお正月の準備を始め、一年のスタートとなる日。
芸舞妓たちは、踊りなど芸事の師匠や見習茶屋などに挨拶回りをし、鏡餅を納め、一年のお礼と来年に向けての挨拶をする。
祇園甲部では、井上八千代師の家へ鏡餅を持って挨拶に来る芸舞妓に、井上流の舞扇を手渡し芸の上達を励ます。
「おことうさん」 十二月三十一日
お世話になっているお茶屋へ「お事多うさんどす」と挨拶回りすること。
お茶屋のおかあさんは、挨拶のお礼に福玉を渡す。
元日、お雑煮を食べる前に割るもので、中には縁起物など京都らしい小物が入っている。
「おけら詣り」 十二月三十一日
大晦日から元旦の朝にかけて八坂神社に参拝して「おけら火」をもらうこと。
「削り掛けの神事」ともいわれ、檜材を擦り合わせておこした浄火を灯籠に移し、それに”おけら”と呼ばれる薬草をくべたもので、そのときの独特の香りが疫病を払うとされる。
おけら火を灯籠から火縄に移し、消えないように火縄を回しながら家に持って帰。
元旦の雑煮の火種にすると縁起が良いとされる。 |